昨年まで現役の医師として働いていた野末悦子さん(88)。野末さんは幼少期を満州国で過ごした。終戦も現地で迎え、帰国したのは1946年。中学2年までを過ごした思い出を通し、戦争を振り返る。
「当時は子どもだったので、のんきで何もわかっていなかった」。父親が中国人に「ものを教えるため」に、満州国へ家族3人で渡ったのは5歳の頃。当時の奉天市(現・瀋陽市)に到着したが、整備が始まったばかりで住む家はなくしばらくは集合住宅で暮らしていた。南満州鉄道の西側にあった鉄西小学校に入学。校舎は未完成で、完成後に自分が使う椅子を抱えて教室に向かったのが思い出だ。
「日本人は中国人に威張ってはいたけど、現地の人は『いい人』たちばかりでうまくいっていた。怖い思いをしたことはほとんどない」と振り返る。野末さんの父親が優しい人だからか、中国人から先生と呼ばれ慕われているように見えた。生徒たちは家によく訪ねてきたが「女性だけの家に入るのは失礼」と、玄関からは決して中に入ろうとはしなかった。
終戦、そして…
終戦は女学校1年のとき。街に防空壕はあったが、空襲は経験していない。完全に閉鎖された近くの工場から、机や機械などを運び出す大きなガラガラという音が何日も続いたのを覚えている。ロシアの兵隊が家に来たこともある。母親が靴を脱ぐように伝えると、素直に従ってあがってきた。お茶を飲み、言葉を教え合うなどの穏やかな時間を過ごした。
第二次世界大戦における日本の立場を知ったのは帰国してから。医者を目指し大学に入り、本を読み歴史を学んでショックを受けた。「日本は侵略していたんだと理解した。こんなに悪いことをしていたんだと思うと恥ずかしかった。故郷は満州という気持ちはあるが、戦争は悪。世界全体に平和がもたらされるように力を尽くしたいと改めて思った」
中原区版のローカルニュース最新6件
|
|
|
|
|
|