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麻生区版 公開:2015年4月10日 エリアトップへ

柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第58回天保の飢饉王禅寺村はその時どうした(1)

公開:2015年4月10日

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 天保4年(1833年)、今から182年前、東北地方では夏の長雨や大洪水がきっかけとなり、ついに大凶作がおきました。中でも、最上(山形県)、仙台(宮城県)、越後(新潟県)では収穫量ゼロという地域も出てくる最悪の状況でした。

 この年は異常気象が続き、春に浴衣を着たくなるような暑さが続いたかと思うと、一転、冷夏でふるえるという有様でした。この天候不順とそれに伴う大凶作は東北地方だけでなく全国にも及びました。それに伴い、あらかじめ米を買い占め、米価が上昇することを待って売り、利益を上げようとする者も現れました。これは、米価の暴騰を招き、全国各地で百姓一揆や、打ち壊しが広がりました。更に事態は悪化し、困窮者が乞食となり、道ばたは餓死者で埋まるという惨状も見られました。このような事態は天保15年(1844年)まで続きます。世の中が荒んだ時代でもありました。一方、対外的には、ロシア船をはじめ、イギリス、フランス船などか次々と来航し日本に通商を求めにやってきた時代であり、鎖国政策中の日本は、まさに内憂外患の状況でした。

 さて、王禅寺の志村家に残されている同時代の古文書は、天保7年(1836年)前後のもので、人々が最も困窮していた時期と考えられます。

 少し天保7年8月の王禅寺村の様子を見てみましょう。文書には「4月から不時の冷気や雨天が続いたが、麦作は十分の収納があった。稲作については、8月頃から日照もあり夫食(ふじき=農民の食料とする米穀)に差し支えあるほどではなかった。しかし、米価が段々引き上がり、貧民は米を買うことも出来なくなり、人々の気配に不穏なものを感ずるようになってきた」「このようなことは天保4年の不作以来のことで、米穀が暴騰してから売ろうとため込んだり、中には利欲に心を奪われ、本業でもないのに、米穀商になり米の買い占めを行う者も現れるようになった。」との記述があります。

 このような状況の中、王禅寺村名主の志村弥五右衛門は、役所に対して、次のような事を約束する旨の請書(うけしょ=承った旨を記して差し出す文書)を差し出しています。その内容は「米穀は米穀商以外は米の売買は許さず。借り入れを始めた者の米は差し止める」「家族の多いものや貧民が救いのため買い入れたものは量を調べ内訳を報告させる」「自分の利欲のために米を売買する者は特別に融通するようなことはしない」「酒米の量は決められた量を守り、勝手に濁り酒等を造り販売しないこと」「平日、衣食住に奢ったりしない」「徒党を組む者に荷担せず、分かり次第村役人に申し出ること」等でした。

 当時、全国的に一揆、打壊しが多発しますが、原因の大きなものとして、米の暴騰をねらって、米穀を買い占めて自分の利益をのみを追求しようとしたりするものが大変多かった事があげられます。王禅寺村では天保7年は決して大凶作ではなかったようですから、この米価暴騰は人災のような事かもしれません。文書にはしきりに「糴米(てきまい・かいよね)=米穀を買い入れ蓄えること」「利欲のため買い入れ」「人気不穏(じんきふおん=人々の気配が穏やかでない)」という文言がでています。米価暴騰による一揆・打ち壊しの頻発、それによる社会不安の増大は、必ずしも自然災害だけでなく人災という側面があった事を浮き彫りにした文書です。

 (資料:志村家文書 天保7年「差上申御請証文之事」)(文:板倉)
 

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