麻生区版 掲載号:2016年1月29日号 エリアトップへ

柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第74回 麻生の寺院 麻生不動 後編文:小島一也(遺稿)

掲載号:2016年1月29日号

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 【前回から続く】麻生不動の火伏の御利益は近郷近在に広がり講を作っていました。講とは信者の集まりですが、現在境内には津久井や相模、横浜などの講中が建立した記念碑があります。昔の人は朝早いほど御利益があると信じ、夜明けとともに霜柱を踏んでお詣りしたもので、本堂で穴あき銭(永楽銭・天保銭・寛永通宝等)を頂き、家に持って帰り竈(かまど)の柱や囲炉裏(いろり)の自在鍵に付け一年が息災で終わると、その穴あき銭に新しい「穴あき銭」をつけてお返しし、また新しい「穴あき銭」を頂いてくる仕組みでしたが、永楽銭などの穴あき銭が全く姿を消した現在は「麻生不動」と印した穴あき銭に似たものを鋳造していますが、その数は年に8千個と言われています。

 この麻生不動に「だるま」が登場したのは明治37年、当時町田能ヶ谷の露天商池田巳之吉が北多摩郡の村山から「だるま」を仕入れ商ったのが最初とされます。巳之吉は農家兼業の露天商でしたが、江戸末期この地方には「揚屋(あげや)一家」と呼ぶ露天商の組合があり、その元締めは王禅寺の尾作清吉で、その配下の露天商は65人に及び巳之吉もその一員だったようです。大正年代になると地元下麻生の青年団が露天商と並んでダルマを商いましたが、当時農村は不況のどん底。しかし達磨大師の「七転び八起き」は養蚕の盛んなこの地方で、蚕が成長する一眠起き、二眠起き、三眠起きと絡んで格好の縁起物となりました。残り物には福ということで、1月28日を「関東納のだるま市」としたのは揚屋一家の裁量であり、今日の「麻生不動のだるま市」盛況の陰には地元王禅寺の揚屋一家の存在が大きかったのではないでしょうか。前述のとおりこの麻生不動の信仰がいつ始まったかは分りません。ですが、この地が室町時代「国領」と呼ばれ麻生郷の本郷であったことと無関係ではないと思います。現在この不動院は下麻生の信徒13名(家)と、王禅寺住職によって運営管理され、正・五・九と言って1月、5月、9月の28日には、下麻生信徒、講の代表、王禅寺住職によって火伏の護摩焚きが行われています。1月28日は皆がよく知るところですが、5月、9月のそれはあまり知られていません。それにしても、火には便利な平成の世まで、不動信仰があることは驚くべきことです。

【参考文献】「新編武蔵風土記稿」「川崎市史」「下麻生の歩み」「川崎市郷土資料」
 

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