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麻生区版 公開:2016年3月11日 エリアトップへ

柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第75回 小沢城 前編文:小島一也(遺稿)

公開:2016年3月11日

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小沢城址は現在、緑地公園として整備されている
小沢城址は現在、緑地公園として整備されている

 麻生区の高石・細山・金程・向原の地は、中世「小沢郷」に属し、その中心が現多摩区の菅から稲城市矢野口にわたる地域で、そこには菅・矢野口から百村・坂浜にかけて広域な「小沢城」と呼ぶ、標高最高87m程の山城がありました。

 鎌倉・室町となって2〜300年、足利、北条氏の時代、この小沢城は戦国の憂き目にあうことになります。現在この小沢城址は川崎市によって保存され、読売ランド駅前からも「多摩自然遊歩道」で訪れられます(約40〜50分)が、現地は稲城と菅にまたがる峰が多摩川に突き出した多摩丘陵の地勢を活かした要害で、今でもこの地には城下、馬場などの小名、そして小沢峰、天神山、浅間山などが通称地名で残されています。

伝承によると、この小沢城は8回の実戦を繰り返したといいます。初回は元弘三(1333)年、新田義貞の鎌倉攻めの際、鎌倉北条軍が分倍河原に布陣した際の戦で、北条傘下の小沢城は落城、この折、城下(菅)の名刹法泉寺の薬師堂や、細山香林寺所縁の寿福寺などが放火の憂き目にあっております。次の戦は日本史で謂う「中先代の乱」で、義貞によって北条高時は自刃し、鎌倉幕府は滅びましたが、翌建武元(1334)年、高時の遺児時行が信濃国で兵を挙げ、関戸の渡しから多摩川を越え、当時この地方に勢力を持っていた足利勢が拠る小沢城を撃破、勢いに乗じて鎌倉まで占拠してしまいます。史誌によるとこの戦の背景には足利氏専制を喜ばぬ勢力があり、京都にいた尊氏は勅許も得ず軍勢を率い鎌倉を奪取、時行軍を滅亡させますが、これが歴史に残る「南北朝」の始まりと言われ、それにしても、小沢城やこの地方にしてみれば、とんだ被害を被ったということになります。【次回へ続く】

 参考文献:「菅町会60年記念誌」「川崎市史」「川崎地名辞典(下)」
 

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