柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第76回 小沢城 後編文:小島一也(遺稿)
多摩区菅から稲城市矢野口にわたる地域にあった山城「小沢城」は鎌倉・室町の時代、戦国の憂き目に遭ってきた。
【前回から続く】
この時期、小沢城を含むこの地方の被害はこれだけでは済みませんでした。そのわずか17年後の正平六年(1351)、足利尊氏、直義兄弟の不和は足利幕府内紛の戦となります。征夷大将軍となった尊氏は室町幕府を樹立、鎌倉には東国の押さえとして鎌倉公方を置きますが、義直は鎌倉にあってこの地方を領有、小沢城に軍勢を集めていましたが、尊氏の直義攻めに関東の多くの武士は尊氏に味方し、多摩川を渡り府中に押し出た直義を打破、小沢城、関戸城(小沢の属域)を焼き払ったと伝承されています。この時尊氏が鎌倉に直義を攻めた戦道が尊氏伝承道です。この戦では小沢郷、麻生郷の全域が戦塵を浴びているようです。
直義は死に尊氏も没し、鎌倉公方は在るものの幕府は京都に移り、南北朝の争いは遠い都でのこと。この地方は再び安穏な年月に戻ります。王禅寺の等海上人の禅寺丸柿奨勧が応安三年(1370)。下麻生木賊不動の建立が応永七年(1400)。以前に紹介した麻生の寺院シリーズで述べたように、農民の間に浸透した新しい仏教思想が、この地方に多くの寺院を生み出したのもこの頃でした。
しかし、その平和な安穏は何年も続きませんでした。尊氏が残した鎌倉公方という置き土産は、関東管領を争う動乱となり、再々度小沢城を戦禍の中に巻き込んでしまいます。
参考文献:「菅町会60年記念誌」「川崎市史」「川崎地名辞典(下)」
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