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麻生区版 公開:2016年7月15日 エリアトップへ

柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第83回 小沢城(3)前編小島一也(遺稿)参考文献:「川崎市史」「横浜市史」「読める年表 日本史」

公開:2016年7月15日

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 文明十八年(1486)太田道灌は相模国糟屋庄(伊勢原)で、主君の上杉定正に謀殺されてしまいます。道灌の死は扇谷上杉家内部に大きな衝撃を与え、敵対していた山内上杉派はこの機を逃さず戦を挑み、今度は扇谷・山内両上杉家の争乱となり、永正元年(1504)、両上杉勢は多摩川を渡り、丸子、井田、作延、枡形城などを巡り勢力争いの対峙をしています。

 この時代、他国の軍勢に領土を蹂躙されていたかに見えるこの地方の地侍の勢力はどうだったのでしょう。市史などによると、「鎌倉公方、関東管領の衰退は、これに連なる門閥、社寺等の所領を消滅させ、代わって下克上の新しい実力者が台頭、各地に地殻変動を起こした」としており、当時この地の地侍(小領主)は、中原の井田氏、阿久津氏、横山氏、そして稲毛の田島氏、木月の諸西氏、片平の大熊氏などの名が見えます。横浜では小机の笠原氏、佐江戸の猿渡氏、有馬の持田氏、町田では小山田の薄井氏(新田義貞旧臣)、大蔵の榎本氏(上杉家臣)と、今でもこの地方に後裔の名を残す、多分に農民と関わった地方自治的(村)領主(地侍)が多く、それだけに戦国大乱大勢力の抗争の中、その進退、去就には大変な苦労があったことでしょう。

 この永正元年の枡形城を中心とする扇谷・山内両上杉軍の対峙には、この地の地侍の多くは扇谷上杉に属しますが、道灌亡き後の扇谷上杉勢は奮いません。そこに現れたのが駿河・伊豆に興った伊勢宗瑞(北条早雲)で、扇谷上杉家に味方して、伊豆・駿河の兵を枡形の城に入れ、なお、小沢城から矢野口・関戸で多摩川を渡り、立川原で山内上杉軍を撃滅、敗走させています。この立川原での戦が宗瑞、後の北条早雲の関東進出への第一歩で、又々多摩川矢野口の渡し、小沢城は、新たな戦に晒されることになります。
 

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