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麻生区版 公開:2016年9月23日 エリアトップへ

柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第88回 シリーズ「麻生の歴史を探る」 北条氏関東支配(1)〜小机城 後編

公開:2016年9月23日

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小机城址遠景
小机城址遠景

 【前回から続く】

 したがって前稿享禄三年(1530)、氏綱の子、氏康の小沢ヶ原の初陣の頃は、この地方は北条氏の領域であったということで、氏綱はこの頃「北条左京大夫」の叙爵を受けています(近衛関白日記)。こうして名実ともに相模・武蔵の守護となった氏綱はかつての鎌倉公方や関東管領の室町体制を打破、戦国大名として新しい領国経営に乗り出しますが、その中心となるのが小田原城で、この地方に北条氏は治世防衛の拠点としていくつかの城を新改築します。その主城となるのが小机城(横浜市港北区)で、この小机城は北の江戸城、西の八王子城、南の玉縄城と共に小田原城を支える重要な城で、城代笠原信為(早雲の伊豆以来の忠臣)が没すると、氏綱は甥の北条三郎を城主とし、続いて永禄三年(1560)氏康の弟氏堯(うじたか)を城主にしていますので、北条氏にとってこの城は重要だったのでしょう。

 この時期、この城の領域は、ほぼ武蔵の橘樹郡、都筑郡の地域で、現在の川崎市川崎区(江戸城領域)を除く全市域と、現横浜市の北半分(鶴見、神奈川、保土ヶ谷、港北、緑、青葉の各区)に及ぶ広大な地域だったようです。この頃この小机城や支城を支える武士(家臣団)を小机衆と呼び郷村の支配は小机領、小机庄となっていきます。戦国大名領国支配の目的である検地(年貢を得るための田畑面積調査)に、小机衆という地殻変動に多少の戸惑いを見せながらも各村で行われ、天文十二年(1543)麻生、黒川での検地資料(川崎市史)が今に残りますが、それは、小机城を主とする北条氏治世の表れともいえます。

 参考文献:「川崎市史」「横浜市史」「戦国大名北条氏文書」「神奈川県の城」

 文:小島一也(遺稿)
 

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