神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙

  • search
  • LINE
  • MailBan
  • X
  • Facebook
  • RSS
麻生区版 公開:2017年5月5日 エリアトップへ

柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第100回 シリーズ「麻生の歴史を探る」沢山城と七面山 後編

公開:2017年5月5日

  • X
  • LINE
  • hatena

 【前回から続く】それではこの沢山城の城主は誰だったのでしょう。家老阿部某の居住する岡上は、小田原役帳には領主福嶋四郎右衛門と記されていますが、此処には在地の有力武士岡上景行が居て、この岡上村を挟んで大蔵村と三輪村の領主はともに北条家の家人市川加賀定友で、この岡上氏も市川氏も天正18年北条氏滅亡後、徳川家に仕えていますので、推測するにこの沢山城は武田氏の来攻や小田原攻めに備えた、北条氏直接支配の城だったのではないでしょうか。ちなみにこの城は八王子城落城とともに焼き払われた(焼米が出た)と云われますが戦が行われた伝承はありません。

 この沢山城の天主の地に祀られているのが三輪七面山です。七面山とは山梨県身延山日蓮宗の霊山を言いますが、三輪七面山はこの霊山の祭神七面大明神を18世紀初頭、日蓮宗の本山池上本門寺二十二世日玄師が、守り本尊として妙福寺(荻野家菩提寺)に賜ったものを、やがて文政年間(1818〜29)に三輪村の荻野与兵衛に下賜されたものと伝えられ、その堂は遠く遠州身延山に向いています。風土記稿によるとこの頃、与兵衛は分家44家を数えたといい、堂内には明和七年(1770)の大飢饉(81日間降雨なし)時の近郷近在での雨乞い資料が残されています。なおこの与兵衛の一族(磯吉氏)の家は江戸時代の医者で、その家屋が現在都の重要文化財として薬師池公園に移築保存されています。

 町田市史はこの七面堂について「奥行き3間の古堂、七面山と呼び石段34段上の高丘に在って”往古この丘から亀井六郎なる武士の射た矢が、能ヶ谷矢先橋まで届いた”」と記し、「この付近に日蓮宗の古寺正法(保)寺が在ったかも知れないが、詳細は不明」と述べています(荻野家の屋号を正法寺とも云う)。

 この三輪七面山は大正12年(1923)関東大震災によって崩壊しますが、当所矢沢氏を発起人に在家の人によって再建されます。そもそもこの三輪の地は、清和天皇の御代(877)、大和国三輪の里の神の社使、荻野・矢沢・斉藤氏等がこの地に移住したと伝承される所で、敬神崇祖の念は篤く、開発を避け古趾を守る現沢山城主とも云える荻野家によって、今も毎年10月18日、妙福寺住職による祭司が行われ、在家ご婦人が造る紅白団子が伝統のご馳走になっています。

 文:小島一也(遺稿)

 参考文献:「新編武蔵風土記稿」「皇国地誌」「町田市史」「七面山開段300年パンフ(荻野久男)」
 

麻生区版のコラム最新6

あっとほーむデスク

  • 3月29日0:00更新

  • 3月1日0:00更新

  • 1月19日0:00更新

麻生区版のあっとほーむデスク一覧へ

バックナンバー最新号:2024年3月29日号

もっと見る

閉じる

お問い合わせ

外部リンク

Twitter

Facebook