麻生区版 掲載号:2018年6月15日号
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柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第126回 シリーズ「麻生の歴史を探る」久末義民騒動 後編

妙法寺の石地蔵
妙法寺の石地蔵
 【前編から続く】この久末村事件より少し前の延宝八年(1680)、幕府は先の慶安のお触書の反省からか、知行地を持つ旗本に「民は国の元也、常に民の辛苦を察し、飢寒等の憂いなきよう…」の意の「代官心得」を公布しています。

 当時の久末村の農民構成は、地主14戸、本百姓(屋敷を持つ農家)22戸、自小作農家33戸、貧農(田畑所有なし)41戸で極めて貧しい村だったといわれ、それを佐橋家が知らぬ筈はなく、この事件の結果は「領民を塗炭の苦しみに陥れた悪代官」と佐橋佳純は糾弾されますが、不思議なことに家禄没収、御家断絶のお咎めはなく、奇妙なことに、事件の翌年(元禄七年)久末村名主が「久末村重郎右衛門、先年至極不行届きにて村方追放」の沙汰を受け、さらに不思議なことはその翌々年(元禄九年)、佐橋佳純は新たに埼玉郡内に新領200石の知行地を得ています。

 これは事件の責任を名主一人に負わせての収拾策で真実はどうであったのでしょうか…。年貢や助郷の負担に苦しむ当時の村や農民にとって「検地」は死活の問題でした。多摩川を遠く離れた山村の久末の地には多少の隠田や新田の開発もあったでしょうが、それが19名の命に値するものか、その理由が全く謎で、そこに村の窮乏を救おうとした犠牲者を拝める義民のいわれがありました。

事件から50年後の延享三年(1746)、久末村妙法寺の辻に村人によって石地蔵が建立されます。これが久末義民地蔵の始まりで、続いて明和元年(1764)久末村の古刹蓮花寺に19名の菩提を弔う高さ2メートル余の宝篋印塔に氏名が刻まれ追善供養され、さらに前記石地蔵は寛政元年(1789)「義民賛歌」が刻まれて改修。現在、高津区久末の天台宗妙法寺には保存されてきた数体の義民地蔵が小屋掛けして納められ供養の香華が絶えぬそうです。

 一方、領主だった佐橋佳純は宝永二年(1705)没し、知行地の菩提寺でもあるこの妙法寺にも墓を持ちますが、維新後何者かによって墓は荒らされ、今はその姿はないとのことです。ちなみに、佐橋家の久末村知行は幕末まで続き、石高は川崎市史によると376石だったようです。

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