柿生文化を読む
【前編から続く】
この江戸時代の中期、全国的に百姓一揆が起きていますが、この地方の旗本領の村方騒動は一揆に至るものでなく終息します。しかし文化十四年(1817)、増上寺領の都筑郡川和村、王禅寺村の代表が年貢の軽減を求めて寺社奉行へ駆け込み提訴したことは、郡下増上寺領7ヶ村、さらには橘樹郡下24ヶ村に及ぶもので一揆を呈するものでもありました。これに対して増上寺側は、増上寺由緒・諸役免除を理由にして応ぜず、役人を川和村・王禅寺村に派遣して農民と代表を割こうとはかりますが、農民は拒否して結束を固めて対立が続き、結局は安政三年(1856)、村方側の主張を入れ斗升分量で増上寺側は妥協しています。
他村から見ると、王禅寺村は増上寺領の諸役御免で鷹場・助郷が免除され羨ましいと思われますが、王禅寺村には王禅寺村の事情があったのでしょう。その王禅寺村に弘化二年(1845)“炭焼き釜打ち壊し事件”が起き、世間を騒がせます。釜の所有者は村の豪農弥五右衛門で、小農の農間渡世に炭焼きを奨励、新釜を増設、村内には19名の炭焼きの家があったそうです。村では犯人は誰かが詮議されました。天保の飢饉の頃にも、世直し一揆と称する打ち壊し事件が起きています。当時弥五右衛門は所有の田畑6町歩余の村一番の豪農で、米穀その他を扱う豪商でもあり、民衆の貧と豪農の富の矛盾を見せつけるものとなっています。
斯うして起きた村方騒動は、訴訟とか、運動とか、一揆とか、その在り方の是非はともかく、騒動は形こそ違え内容は同じで、それは幕府体制下、愚民ともとらえられていた農民の人間としての自覚で、その高まりが騒動として現れたもので、この地方にも維新の芽生えがあったと見るのはいかがでしょう。
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