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麻生区版 公開:2018年9月28日 エリアトップへ

柿生文化を読む 第134回 シリーズ「麻生の歴史を探る」津久井街道〜登戸宿、竹の花宿 後編

公開:2018年9月28日

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【前編から続く】

 柿生、岡上郷土誌は、「文化年間(1804〜1818)津久井街道を江戸へ絹織物を運ぶ人が増え、この人たちを相手にする宿屋、床屋、酒屋などができ、竹の花宿となった」と述べています。竹の花とは地名ですが、丘を背にした温暖なところで、柿生は江戸と津久井の中間にあたり、絶好の休憩地だったのでしょう。現在この道は湾曲した道筋が僅かに昔日をしのばせていますが、何よりも今に残る、わたや(宿屋)、とこば(床屋)、みせ(作り酒屋)などの在家の屋号がその先祖の商を今に伝えています。

 この竹の花宿に続く大ヶ谷戸(現柿生駅前)には、寛政十一年(1799)造立の高さ2m余の宝塔が津久井街道跡をしのばせ、文化、文政の頃の創業とされる豪商藤屋跡、生糸問屋の松屋、豆腐・煮〆屋跡などがあり、そして現坂の稲荷坂(江戸に向かい右手に急坂があった)の坂上には床屋が、中腹には酒屋があり、造立稲荷の木立が通行人を憩わせていたそうです。

 大ヶ谷戸から江戸への津久井街道は、上麻生山口(松葉下)で旧道と新道に分かれており、旧道は、通称大坂から弘法松に向かい、新道は大正十年(1921)陸軍大演習の際、麻生川沿いの山麓に万福寺向けに建設された道で、大正年代から旧街道の人の往来は絶え、この新道が津久井街道となりますが、この道も昭和三十二年その役目を終え、片平側の物流の動脈、世田谷町田線に代わっていきます。

 登戸宿、竹の花宿をにぎわした津久井街道は、安政年間に入り人馬の往来が減っていきます。それというのは安政五年(1858)日本とアメリカの通商条約は、江戸から横浜へ絹の流れを変えたからで、この麻生でも人の流れを津久井街道から日野往還(横浜上麻生線)に移り、竹の花宿は橋場の宿になっていきます。

参考資料:「川崎市史」「ふるさとは語る(柿生郷土史刊行会)」「津久井街道(稲田図書館)」「歩け歩こう麻生の里」
 

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