柿生文化を読む 第164回 シリーズ「麻生の歴史を探る」下綱騒動と志村弥五右衛門前編 文:小島一也(遺稿)
前稿(昨年11月22日号、29日号)で王禅寺村(現王禅寺東・西)と増上寺との関わりは、寛永3年(1626)、将軍秀忠夫人お江与の方(崇源院)が死去、お化粧料として増上寺領となり、他の旗本領と違って、助郷やお鷹場の負担は免れていたものの、公儀(幕府)を通しての寺社領への法度は厳しく、代々名主を務める志村家は、その対応に苦しんでいたと先に述べました。
王禅寺村が増上寺領になったのは寛永3年ですが、それから120年後の延享4年(1747)の増上寺領は、橘樹郡24ヶ村、都筑郡7ヶ村、他17ヶ村で48ヶ村となっており(市史)、村々の支配は複雑になります。そうした中で寛政年間の頃(1789〜)、増上寺御霊屋領25ヶ村の肝煎総名主であったのが志村弥五右衛門でした。肝煎とは取り持ち、世話人を意味しますが、この弥五右衛門は志村家先代に子がなく増上寺から養子に入った寺侍で、名字帯刀を許され、その知徳は府内に知られ、公儀(幕府)、増上寺、農民の間に入って信頼を得ますが、この弥五右衛門の特徴は、領内各村々に精通していることで、これを書き留め、折衝に活かし、特筆すべきは、慶長年間(1596〜)に遡って、丹念に増上寺から記録を収集しており、それが現在「志村家文書」として、川崎市の貴重な歴史資料となっています。
この弥五右衛門は増上寺御霊屋領25ヶ村の肝煎を務めながら、王禅寺村名主を務め、子息文之丞(志村家13代)に家督を譲るのが文政、天保の頃(1830)と思われますが、ちょうどその頃起きたのが、増上寺領宿河原村の下綱松「弁財天騒動」でした。
この下綱松は、現多摩区宿河原と長尾、緑ヶ丘霊園の接点にあった老松で、鎌倉時代の縁起(加賀文庫)では、この地は畠山重忠の領地であったことがあり、多摩川はこの松の下を流れ、頼朝のご座船を松の根に繋いだので「下げ綱」の名が起きたとされ、新編武蔵風土記稿は、「相云う、太閤秀吉小田原陣の時、上杉家の兵、この松に綱を下げて丘下に下りし故、かく名付けしと」とあります。
【後編に続く】
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