柿生文化を読む 第165回 シリーズ「麻生の歴史を探る」下綱騒動と志村弥五右衛門後編 文:小島一也(遺稿)
【前編から続く】
地元の伝承には、この松の近くに貧しい百姓が住んでおり、枯れた松の枝を切り、生業の助けとしていましたが、ある夜、夢枕に松の精霊が現れ、「木々朽ちて 公を腐(くさ)さぬ常盤木(ときわぎ)の源氏の縁(ゆかり)なお栄えけり」と由緒を諭されたとの逸話があり、また、ある夜、多摩川の洪水は一挙に宿河原村も襲いましたが、不思議なことに松の根元から白い布が垂れ下がり、老若男女を救ったといい、その折、邪(よこしま)な老婆が白布を持ち去ろうとしたところ、白布はみるみる巨大な白蛇となり、老婆を飲み込もうとしました。村人たちは驚いて松の木の下に祠を建て、白蛇を祀ったのが「松寿弁財天」の始まりで、村人は祠内に白蛇の絵馬を掲げて祀りますが、その絵馬は、当時盛んだった養蚕から、ネズミの害を救う霊験を顕したといい、それはいつの間にか信仰となり、近郷近在は勿論、江戸まで知られ、詣でる人が後を絶たなくなります。
時は太平の世に慣れた江戸時代の末期、多摩川は江戸町民の遊楽の地でした。特に対岸の多摩丘陵の眺望は絶景で、それは当時の「武陽玉川八景の図」(下綱松が大きく描かれている)に見ることができますが、江戸市民には、格好の観光の地となり多摩川と下綱の間には84軒の茶店が軒を連ねたといいます。
前述したように宿河原村は増上寺領(半分は幕府領)で、志村弥五右衛門は肝煎名主でした。従ってこの一連の出来事を克明に記録しています。その内容は、一つには、その賑わいの様子で、84軒の茶店、駕篭屋、武家も詣でたことを述べ、二つには、百姓が田畑を潰し、本来の農業から離脱しないかの心配、三つ目には、茶屋の風紀・金銭取り締まりの配慮ですが、結果的には、弥五右衛門の心配通り、百姓は茶店の拡張に田畑を潰し、茶店には博徒、無法人が横行、土地の若者はお賽銭をわし掴みして、甲州街道の遊び場をのし歩いたといい、天保3年(1832)11月、公儀、増上寺によって84軒の茶店は一軒残らず取り壊され、下綱松騒動の決着となっていきます。
この下綱松の跡は、宿河原の下綱町会の岡の上(100段を数える断崖、途中白蛇が呑んだ御霊泉がある)にあり、その跡には現在小祠が建てられ、堂内には、白蛇弁天像などの絵馬、松寿弁財天絵図が掲げられ、そこには、賽銭箱は盗難のため置かないと記されていました。
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