柿生文化を読む シリーズ「鶴見川流域の中世」中世人の生活の舞台としての鶴見川【3】-2 文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)
『川崎市史資料編』に収録された「地検目録」を見てみよう。永徳4年2月26日の日付になっているが、偶然にもこの翌日に改元が行われて至徳元(1384)年になっている。
渋口郷を新たに拝領した上野国新田の武士岩松氏が渋口郷へ入部するにあたり、「ひこ七郎」に地検目録を作成させて提出させた。岩松氏の関心は田地の様子と年貢を納める在家百姓および年貢高であることは言うまでもない。年貢高は銭に換算し直して都合 39 貫 613 文であった。この当時は年貢・公事を負担する百姓の単位は「在家」と呼ばれ、家屋・附属する菜園を中心にして周囲に水田が付属していたが、渋口郷にはこの在家が6宇あった。その在家の田地には能登房作・きやうみち作・浄法作・左近五郎作・七郎分・かくねん分と記されて、それぞれ領家方・二木方・たたえ方・立河方に属していた。
在家の水田の規模は1町から2町程度である。「作」は実際に耕作しているか、耕作権を持っている事を表している。能登房・きやうみち・浄法・左近五郎の四人は渋口郷の百姓で、実際に田畠を耕すか作人に耕作させていたのであろう。「人名+分」というのは在家田畠の所有権を示している。七郎・かくねんは渋口郷の百姓であるが自ら耕作していないかもしれない。いずれにしても渋口郷の在家を持つ百姓は 6 人だった。それでは百姓の数が少ないと思われるが、「地検目録」という「公的」な文書には年貢・公事を負担する百姓が6人である事を示しているわけで、この他に史料に表れてこない一人前の在家とは認識されない住人や在家に隷属した人々がいたであろう。そうした人々がいなければ七郎分やかくねん分の田を耕作する事は出来なくなる。渋口郷には様々な階層の住民が住んでいたという事が、この史料の背後から浮かび上がってくる。
(続く)
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