柿生文化を読む シリーズ「鶴見川流域の中世」多くの武士が割拠した鶴見川流域【3】 文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)
武士が入れ替わる背景には、鶴見川流域が武家の都「鎌倉」、江戸幕府の都「江戸」の後背地であるという事情と密接に結びついている。「鎌倉の主」や徳川将軍家にとって、鶴見川流域を安定的に支配する事は重要な政治課題であった。ここで言う「鎌倉の主」とは鎌倉将軍家や執権北条氏、南北朝〜室町時代に鎌倉にあって関東を支配した鎌倉公方足利氏を指している。鎌倉は源頼朝が幕府を開いてから、鎌倉公方足利成氏が古河に移るまでの約350年間武家の都であり続けた。
言うまでもないことであるが、鶴見川流域は武家の都「鎌倉」、江戸幕府の都「江戸」の武士達にとって日常生活に必要な食料や消費財(薪炭・灯油・竹木等)の供給地であり、戦争になれば「都」を守る防衛線の役割が期待されたからである。その様な意図から自立志向が強い有力武士は「鎌倉の主」によって排除されて、平安時代末期〜鎌倉時代前期の武士の多くは姿を消して、鎌倉時代中期の流域では将軍の直轄領、執権北条氏一門の所領、将軍所縁の深い鶴岡八幡宮寺や建長寺などの有力寺社の所領に入れ替わっている。室町時代には足利氏所縁の寺社領、戦国時代には小田原北条氏の一族や譜代重臣の所領が置かれた。江戸時代には旗本領や将軍家御霊屋料が数多く置かれている。時代の変革に伴って度々武士が入れ替わったので、鶴見川流域に英雄・豪傑や有力な戦国大名が生まれなかった。そのことは、地域住民が共同体を基礎に地域社会を形成していくうえでプラスに働いたと考えられる。(つづく)
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