麻生区版 掲載号:2021年4月23日号 エリアトップへ

柿生文化を読む シリーズ「鶴見川流域の中世」源平の争乱を生き抜いた武士 小山田有重【2】 文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)

掲載号:2021年4月23日号

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武蔵御嶽神社大鎧 『宝物集』より転載
武蔵御嶽神社大鎧 『宝物集』より転載

 有重は源家の家人であったが、平治元年(1159)の平治の乱で源義朝が討たれ、武蔵国が平清盛の知行国になると平家の家人になった。

 治承4年(1180)に源頼朝が伊豆国に平家打倒の兵を挙げた。このとき有重は兄重能と共に大番役のために在京していた。そのまま4年間京都に留められていたが、寿永2年(1183)砺波山合戦で木曽義仲軍に敗れたた平家方は、重能・有重兄弟を召し出して「汝らは戦場経験の豊富な老練な武士である。戦いのやり方を指図せよ」と命じ、兄弟を北陸道の前線に向かわせた。重能・有重は加賀国篠原(石川県加賀市)で木曽義仲方の今井兼平軍と、長時間に渡り激闘を繰りひろげ今井方の多くを打ち取ったが、畠山方も家子郎党の多くを失い退いている(『平家物語』)。その後、西海に落ちる平家方の命令で一旦は斬られる事になっていたが、平知盛等のとりなしで許されて関東に帰ることができた。有重は源頼朝の御家人になっている。重能は家督を重忠に譲り隠居したのであろう、その後の消息は伝わっていない。

 『吾妻鏡』には有重の人物像を語る印象深い話が伝わっている。元暦元年(1184)6月16日、甲斐源氏の嫡流一條(武田)忠頼が、頼朝の御所に招かれ酒宴が開かれた。頼朝は工藤祐経に命じて、かねてから威勢を振るい頼朝の統制に従わない忠頼を、酒宴の席で討取る手はずであった。ところが、祐経は緊張のあまり顔色が変わり、忠頼に気付かれそうになった。これを見た有重は席を立って、「このような席でのお酌は、年寄りの勤め」と祐経の持っていた銚子を取って、重成・重朝も盃と肴を手にして共に忠頼の前に進み出た。そこで有重は二人の子息に向かい諭して「給仕の際の故実では、袴の裾は万一の場合に備えて括り結ぶものだ」。二人が手にした物を置き、括りを結んで忠頼の注意をそらした。その間に天野遠景が別の命令を承っており、太刀を取って忠頼を討取っている。有重の機転によって忠頼を討ち果たすことができた。古兵(ふるつわもの)の有重の面目躍如といったところである。

 小山田地区には小山田氏館跡といわれる大泉寺がある。小山田No.1遺跡からは掘立式建物、地下式坑や宋銭ひとさし(97枚)等が出土している。No.12遺跡の周辺部には窄場(さくば)、牧畠、馬駆などの馬牧に関連するような小字名が残されている(『小山田遺跡群』)。

      (つづく)
 

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