柿生文化を読む シリーズ「鶴見川流域の中世」高名の馬飼 都筑経家とその一族【3】文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)
建治元年(1275)に記された「六条八幡宮造営注文」には鎌倉中御家人として都筑民部大夫跡5貫文、都筑右衛門尉跡5貫文、都筑左衛門入道3貫文がある。都筑右衛門尉跡は経景をさすと考えられる。都筑民部大夫跡は誰であろうか。民部丞は六位の人をもって任じたのであるが、その中で重なるものを選んで五位に叙し、それを民部大夫という。都筑民部大夫はこれに該当する。老齢を隠すために白髪を黒く染めて奮戦した斎藤実盛の同族に都筑利用があり、この注記に従五位下民部丞とある(『尊卑分脈』)。都筑利用は都筑民部大夫と同一人物ではないだろうか。実盛は長井斎藤別当実盛と称し武蔵国長井庄(埼玉県熊谷市妻沼)の別当であった(『平家物語』)。別当は馬牧の管理者の職名で、立野牧に関係した都筑経家と同様である。越前国の人であった斎藤実盛が長井庄に入部したのは平家の指示であったが、都筑氏も平家の関係で都筑を所領としたのであろう(『図説都筑の歴史』)。「高名の馬乗・馬飼」と「風雅な和歌の上手」という都筑氏の二つの側面を矛盾なく考えると小野姓横山党ではなく、利仁流藤原氏の出身と考えた方が無理のないように思われる。 (つづく)
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