柿生文化を読む シリーズ「鶴見川流域の中世」 稲毛庄の定説を見直す〜稲毛庄と畠山氏の関わり【3】文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)
さて、渋口郷を畠山氏の庶子六郎重宗が本貫地とする事で井田郷・小田中郷・稲毛郷等の稲毛庄内の他の郷とは異なる歴史を刻むことになる。南北朝時代から戦国時代の歴史については143〜144号で述べているので重複を避けて、ここでは多摩川沖積低地にある稲毛庄稲毛郷・小田中郷・井田郷と比べてどの様な特徴があるのだろうか見ることにしよう。
渋口郷の地形は多摩丘陵と多摩川と矢上川がつくった沖積地からなっている。同郷は橘樹郡の中央に位置し、古代の橘樹郡衙に隣接し、郡寺であった栄興寺(影向寺)の木造薬師如来は12世紀前半、両脇侍菩薩像は12世紀後半の作と推定されている。これは稲毛庄の設立と時期が重なっている事に留意したい。隣接する矢上川流域の有馬郷・山田郷には鎌倉時代の寺院が存在したことが史料や伝承から分かっている。以上のことから、この地域が中世前期には文化の先進地域であったと考えられる。また、相模・武蔵から下総を結ぶ中世の幹線道路である中原街道が丘陵部から平野部に入る場所にあり、複数の道が分岐する交通の要の位置にあった。
(つづく)
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