柿生文化を読む シリーズ「鶴見川流域の中世」 板碑に刻まれた「主君」は武将か僧侶か―建長七年銘板碑から地域社会を考える―【1】文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)
川崎市高津区久末町に所在する妙法寺には、川崎市内で最古の板碑である建長七年(1255)銘板碑がある。この板碑は神奈川県下でも二番目に古く、紀年銘・造立趣旨・人名が刻まれている点で地域の歴史を知る貴重な資料となっている(川崎市重要歴史記念物)。
板碑とは中世(鎌倉時代〜戦国時代)の石造物で、秩父地方に産する緑泥片岩(青石)で造られた供養塔婆である。石を平たく成形して頭部山形の下に二条線を刻み、仏菩薩を表す梵字や仏像を陰刻してその下に年月日や人名を刻んでいる。墓地で見かける木製の卒塔婆を石で造ったものと言える。石で造られた卒塔婆なので数百年の風雪に耐えて歴史を伝えてくれる。板碑が土地の年輪と言われる所以である。
この建長七年銘板碑はもと都筑郡山田村(横浜市都筑区東山田町)の三宝寺(現在は廃絶)の客殿にあった。おそらく三宝寺の廃絶にともなって妙法寺に移動したのであろう。三宝寺と妙法寺は中原街道の沿道にあり、直線距離で1Kmの至近距離にある。板碑の大きさは、高さ64cm・横幅40cm・厚さ5・5cmで蓮座から上部と銘文の下部が欠失している。欠失が無ければ1・5mを超す大きな堂々とした板碑であったであろう(『川崎市文化財図鑑』)。
その塔身の銘文は一部が欠失しているが『新編武蔵風土記稿』の記事で補ってみると、「右為主君聖霊出離/建長七年乙卯初秋/生死往生極楽造立如件/寺主/良範」と読める。銘文にある「主君聖霊」は武士を指すのか、僧侶を指すのか研究者の間で見解が分かれている。
(つづく)
<PR>
GO!GO!!フロンターレ3月29日 |
GO!GO!!フロンターレ3月22日 |
GO!GO!!フロンターレ3月15日 |
|
GO!GO!!フロンターレ3月8日 |
GO!GO!!フロンターレ3月1日 |
|
<PR>
3月29日
3月22日