柿生文化を読む シリーズ「草創期の柿生中学校」校舎は何処に?【3】文:小林基男(柿生郷土資料館専門委員)
こうして校地は決まりました。しかし、校舎をどう建てるかです。先ずは山を切り崩しての整地作業が必要です。昭和22年当時に建設機械などありません。その上、国も県も市も財政難で火の車です。行政による資金手当てを待っていたのでは、校舎はいつできるかわかりません。地元の子どもたちの教育環境は、地元で整えてやろうじゃないか。子どもたちにこそしっかり学んでもらって、将来の柿生と日本を背負ってもらおうじゃないか。そういう楽しみのために頑張ろうということに衆議一決して、地元の労働奉仕で校舎を建てる事になったのです。
教育のためなんだからと米軍のブルドーザーを借用出来ないかと、知恵を絞って交渉に出かけた勇気溢れる人物も現れたのですが、当初はモッコに鍬、そしてシャベルの作業だったのです。初年度にはとても間に合いません。こうして柿生小学校に間借りして、スタートする事になったのです。小学校が第二校舎の4教室を中学校用に貸して下さったのです。
(つづく)
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