柿生文化を読む
(唄) ヨーイトコサッサ(拍子) ヨーイトコサッサ
(唄) よい娘を持つのは父親の貧乏 菜種3斗蒔きを荒らされた ショウガナイナ
(拍子) 荒らされた 菜種3斗蒔きを荒らされた ショウガナイナ
この唄は名産黒川炭、黒川の炭焼窯の作り唄としていましたが、今は全く絶えてしまっています。
「新編武蔵風土記稿」の産物黒川炭の項に「村民農業の暇には毎年9月より焼始て、3月を限りとせり 黒川炭と唱えて焼ことは当郡または多磨郡にもあり、当村其もとなるべし、このことはいつの頃より焼そめしことは伝えざれど、近きことなるにや」と黒川炭は、黒川村が発祥の土地と記しています。
この炭は、薪に豊かな多摩丘陵のこの地方で、江戸時代当初から生産されていましたが、黒川炭として名声を呼ぶのが江戸中期、下総国佐倉で良質の炭が生まれたからで、田中長嶺という人が著した「炭焼手引書」によると、「寛政五年(1793)下総、小金の川上右仲なる者、檪炭の良品を出す。これを佐倉炭の鼻祖(元祖)となす。真に木炭の模範にして、爾来その焼き方、諸国に伝搬して、大いに炭事業開進を致せり」と述べています。
その焼き方が佐倉から江戸、甲州街道を西に進み、黒川炭と昇華するわけですが、良質の炭とは、木質表皮まで蒸し焼き、炭素化され、黒川炭は黒皮炭と評価されるに至ります。だがそれは、一朝にして成るものではありません。
その一つは窯の構築で、この地方の表土は関東ローム層で熱に弱く、寛政六年(1794)幕府の命でこの地の地理を研究した古川古松軒という学者は「この地方の土は、カマド、カベ土に用いられず、民家にカマドあるは稀で、いろり住居なり」と述べており、事実この頃台所にカマドがある家はありませんでした。これを突き破ったのが村民、力を合わせ、横穴を掘っての山砂層の採取でした。
望ましい窯の原料は、荒砂6、細砂3、粘土1だと言われ、この炭焼き窯の構築は、当初、一人や二人で出来たものではなく、大変な苦労があったもので、先の祝唄の歌詞が頷けてまいります。
【後編に続く】
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