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麻生区版 公開:2018年10月12日 エリアトップへ

柿生文化を読む 第134回 シリーズ「麻生の歴史を探る」津久井街道〜登戸宿、竹の花宿 後編

公開:2018年10月12日

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一本松三叉路の石塔
一本松三叉路の石塔

 麻生水処理センターの西隣は町田市能ヶ谷町ですが、そこに今でも“一本松”と呼ぶところがあります。ここは前稿旧津久井街道と、神奈川(横浜)-日野(八王子)を結ぶ日野往還が合流した場所で、今は全くうらぶれた街角にすぎませんが、ここの三叉路に「左 江戸 東 神奈川 西 八王子」と記されていたという、今は全く摩耗した高さ70cmほどの石塔があり、当時の名残を留めています。この日野往還は現水処理センターから鶴川を経て日野に行きますが、その始点は神奈川(横浜)で神奈川道とも呼ばれます。この神奈川道にはもう一つ八王子道と称する街道があり、これは小机で日野道と分かれ、鶴見川南岸を鴨居・中山・長津田を経て町田から八王子に行きます。一方の日野往還は鶴見川北岸、多摩丘陵の山麓を縫って、小机から佐江戸・茅ヶ崎・市ヶ尾・鉄・麻生・鶴川・犬蔵・野津田を経て日野(八王子)に達するもので、その特徴は鶴見川本支流域を南北に分け、沿線に農穣の地を持ち比較的平坦に東西に伸びていることです。

 小田原北条の戦国時代には、北条氏の南武蔵支配の拠点として、この街道沿線には小机城を主城とする、篠原・佐江戸・茅ヶ崎・荏田・亀井・沢山・榎下(八王子道)・成瀬(八王子道)城などが構築され、軍事道として人馬の賑わいを見せますが、江戸時代になると“江戸百万町民の消費は、道を江戸に通ず”、江戸と南武蔵・相模を東西に結ぶ津久井街道・矢倉沢往還(大山道)・中原街道(丸子茅ヶ崎線)が農産物等を江戸に運ぶ物流の道となり、中でも矢倉沢往還は雨乞い、不動信仰の参詣人の道ともなり、その中心荏田宿は市が立つほどの賑わいとなり、その陰で日野往還・八王子道は、江戸道に人馬の往来を奪われて人の流れが絶えていきます。

 この日野往還が再び人の流れを取り戻すのは、安政五年(1858)日米通商条約が結ばれ神奈川港が開かれた頃と思われます。それは前稿(津久井街道)で述べたとおり、八王子に集積されていた相模・津久井・南多摩などの製糸産業が江戸から横浜へ流れを変えたからで、そのことは冒頭述べた旧津久井街道に栄えた竹の花宿(文政年間1818〜)に代わり、わずかに南に離れた日野往還の道筋には、今でも宿(旅籠)、橋場(酒屋)、新橋屋(茶店)などの屋号が残され、街道の人の流れの変化を物語っています。【後編に続く】

参考資料:「柿生村と私の歩み(飯塚重信)」「青葉のあゆみ(青葉区役所)」「津久井街道(稲田図書館)」「横浜の歴史の舞台を歩く(相澤雅雄)」
 

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