第二次世界大戦時に旧満州国(中国)に渡り、終戦後の混乱で帰国できなくなった残留孤児。幸区神明町出身の猿田勝久さん(75)もその1人だ。終戦から74年、猿田さんに自身の経験と思いを聞いた。
猿田さんは1943年、幸区生まれ。終戦2カ月前の45年6月に家族と旧満州国の斉斉哈爾(チチハル)市へ渡った。8月9日、旧ソ連(ロシア)軍が侵攻。当時の記憶はないが、母親に聞いた話によると「ソ連軍があちこちにいて、見つかれば収容所に連れていかれた」と語っていたという。
終戦を迎えるも、猿田さん一家は帰国の手段を無くした。家族が次々と病気にかかり、自身が8歳の時最後の家族である母親も亡くなった。亡くなる直前、母親は1人取り残される猿田さんを心配し、自分の死後は日本の親戚に連絡を取るようにと話した。猿田さんは母親と再婚していた養父に育てられた。「養父は本当に親切で、獣医専門学校にも通わせてくれた」。卒業後は動物病院に勤務していたが、66年に文化大革命が起こると、日本人という理由で職場を追われた。
現地で生活しながら、帰国の方法や手がかりを探し続けていた猿田さん。80年、猿田さんは同じように中国に取り残されたが、日本語が話せる残留婦人に依頼し、手紙を作成。当時残留孤児の肉親捜しに注力していた、長野県にある長岳寺の山本慈昭住職に手紙を出した。それがきっかけで厚労省が全国にチラシを配布し、母親の妹と連絡を取ることができた。85年、猿田さんは念願の永住帰国を果たした。
帰国後は日本語が話せず職場でいじめを受けた。「うつ病を患ったこともありましたが、悔しさを日本語の勉強にぶつけました」。毎晩深夜まで日本語学習に明け暮れた。
経験を生かし、現在は川崎区の市ふれあい館や、早稲田大学などの教育機関で講演を行っている。「自分のような思いをする人が二度と出ないように、戦争の苦しみを語り継ぐ義務がある」と力を込める。一方で、来年はオリンピックの通訳ボランティアとして活動する予定。「中国、日本で色々な人に支えて頂いた分、両国のために恩返ししたい。日中の懸け橋になれたら」と語った。
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