戦後70年経った今年、戦争の悲惨さを語り継ぐため、区民の体験、区内の風景を通して、幸区に残る戦争の記憶をたどる。終戦時17歳だった石川恵一さん(86)は、川崎大空襲の恐怖を鮮明に記憶している。
市最大の被害を出した4月15日の川崎大空襲を体験した石川さんは、東芝の小向工場に勤務していた。宿直が続いた後、自宅に帰り少し眠りについたころ、空襲警報が鳴り響くと同時に爆撃が始まったという。
石川さんは「家族に続いて逃げ出したものの、風が強く火は横に吹き、炎に包まれるほどの勢いだった」と話す。「父親と多摩川の水にふとんをひたして、防空壕の入り口まで逃げ込んだ。家や職場は焼けてしまったが、家族は無事だった」と振り返った。
翌日、けがをした友人の見舞いに行った帰り道、夜中の12時ごろに延命寺の前を通ると、境内にはむしろをかぶせられた多くの遺体が並べられていたという。「むしろをめくって見ても、性別が分からないほど損傷していた。その場にいた母親が、亡くなった子どもの爪を切っていた光景は忘れようと思っても、今でも脳裏に浮かぶ」と語り、一人
拝んで帰ったという。
さいわい歴史の会の野口始男さんによると、延命寺には軍隊がやってきて穴を掘って遺体を埋めようとしたという。しかし、当時の住職が軍隊に作業を止めさせ、身元を書き取り供養塔に名前を刻んだ。碑文には「御幸地区戦災死者氏名」として、159人の名前が彫られ、「外氏名不明者参拾有余名」とも記されており、約200人の遺体が運ばれたことになる。
野口さんは「このように名前を記した記録が残っているのはここだけだろう」と話す。名前が彫られた碑も70年が経ち、文字が読み取りづらくなっている。
幸区版のローカルニュース最新6件
|
|
|
|
|