戦後70年経った今年、戦争の悲惨さを語り継ぐため、区民の体験、区内の風景を通して、幸区に残る戦争の記憶をたどる。遠藤町に住む佐藤房江さん(84)は、戦争で家族・親類が犠牲になった。
当時、紺屋町に住居を構えていた佐藤さん一家。佐藤房江さんは当時、中学1年ながら、学徒勤労動員として、東芝の小向工場に勤務していた。
市最大の被害を出した川崎大空襲の夜は3発の焼夷弾が家に直撃し、屋根を突き破って家の中に落ちてきた。すぐに部屋の中は炎に包まれたという。佐藤さんは家を飛び出し、防空頭巾に火が付いたものの、近所の人により水をかけてもらい、水たまりに飛びこんだ。
しかし、4歳だった弟は即死、42歳だった母親と建物疎開で自宅にいた従兄は火だるまになっていたという。佐藤さんは「近所の人が一生懸命、家族にバケツで水をかけてくれたが髪の毛は焼け、顔はパンパンにはれ上がっていた」と焼夷弾の脅威を振り返る。
その後、頭に焼夷弾の直撃を受けた母親は出血多量で亡くなり、従兄も病院へ担ぎ込まれたが火傷により一週間後に死亡した。夜勤だった父親、伊勢原市の大山に集団疎開していた妹は無事だった。
延命寺にある名前が刻まれた供養塔には、母親の名前が彫られている。10年前に気づき、線香をあげて、「ありがとうございました」と感謝の気持ちを伝えたという。
戦争が激化していった当時を振り返ると、佐藤さんは「空襲直前の照明弾は、夜でも新聞が読めるほどまわりが明るくなった」と話す。また、空襲が起きても逃げることは許されなかったという。「だから、大勢の犠牲者が出たと思いますよ。焼夷弾が落ちると燃え上がって、学校の校庭で訓練していたバケツリレーではとても鎮火できるものではなかった」と苦笑する。
「ただ、今でも戦争の光景は鮮明に思い出す。私の人生を変えるほどのものだった。戦後も70年が経つと、明確に戦争の話を出来るのは当時の子どもだけ。もっと親の世代の話を聞いておけばよかった」としみじみ語った。
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