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平和維持へ「若者に期待」 上矢部在住 岡本 誠さん(77)

社会

公開:2016年8月4日

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戦時中の記憶を語る岡本さん=7月30日、御嶽神社
戦時中の記憶を語る岡本さん=7月30日、御嶽神社

 終戦当時、8歳。大野第二小学校(現在の市立淵野辺小学校)の1年生だった。外で遊んでいたため、玉音放送を聴くことはなかったが、父親から「日本は負けた。戦争は終わったんだ」と言われ、敗北を知った。

 終戦前は校庭に日本軍が駐屯し、高等学年(現在の6年生)の子どもたちが訓練に励んでいる姿を目にした。終戦間際は戦況の悪化が著しく、校舎での授業が困難を極めたことから、上矢部の薬師堂の本殿を教室とし、二人の教師によって授業が実施された。防災訓練も授業に組み込まれ、空爆による爆風を避けるために、耳と口を手で塞いで倒れ込むなどの訓練を受けた。

 実家には竹藪の急斜面を掘って作った防空壕があった。7人が隠れることができるくらい大きいもので、空襲警報がなると昼夜問わず逃げ込んだ。三男の弟がまだ小さかったため、おぶって逃げるのが役目だった。中では、米軍機から明かりが見えないように注意を払い、息を潜めながらじっと耐えた。戦中、一度だけ機銃掃射にあったことがある。幸いケガは負わなかったが、当時を思い出すと「今でもゾッとします」と振り返る。小学1年生の身でも、教師からは樫の実を拾い集めるよう命じられることもあった。軍機の燃料にするためだったようで、当時は命じられるがまま、精を出して集めたことを思い出す。

 終戦を迎えたとはいえ、平和を実感するまでには時間がかかった。その当時は食べ物不足で困窮。さつまいもが主食で、麦飯などで空腹を満たすなど生活は苦しく、「私には戦中が続いているかのようだった。誰もが皆、ひもじい思いをした」。学校で使う教科書はなく、教師がこしらえたガリ版刷りの手製の教本が使用され、そこからは「神国」や軍に関係する事柄に黒塗りが施されていた。時代が刻一刻と変化する中、2年後、自身3年生のとき、それまで男女別学だったのが共学になり、運動会も開催されるようになった。運動会では笑顔あふれる家族の姿を目の当たりにし「あれでやっと平和を実感できた」と、しみじみ振り返る。

 あの終戦から71年。自身の目に、今の日本は「平和に映る」。ただし、「平和ボケしている中で、戦後の人たちが築き上げてきた今の日本を維持していかないといけない」と危惧する。それでも、若者には激励を込めてこう言う。

 「人生のスケジュール、方針を立て、一生かけて自分のセールスポイントを身につけて、自分のためだけでなく、いかに社会に貢献できるか。そうした考えを一人ひとりがしっかり持って生きていければ、平和は維持できる。私はね、期待してるんです、若者たちに」

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