終戦から73年が経ちました。戦中、戦後の苦難を風化させぬよう、当時を生きた方々からお聞きし、改めて平和を心に刻む機会といたします。
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8月6日午前8時15分。73年前のこの日、5歳だった丸山さんは、ほぼ爆心地と言われる現在の原爆ドームから2Kmほどに位置する自宅のそばの空き地で遊んでいた。その瞬間、爆風に吹き飛ばされ、気を失った丸山さんは、ガラスの破片で足に何カ所も傷を負ったが、幸いにも光線の当たらない物陰に飛ばされたおかげで、やけどは負わずに済んだ。しかし目が覚めると、町は激変。それまで晴れ渡っていた空は曇り、家屋のほとんどは倒れ、あちこちで煙が立ち込めていた。丸山さんは町をさまよった揚げ句、自宅を見つけることはできなかったが、偶然会うことができた知り合いに保護された。丸山さんの家族のうち、自宅にいた祖母と上の姉は、瓦礫の下敷きになるもなんとか生還。学童疎開で約20Km離れたところにいた兄と、ちょうどその兄を訪ねていた父は、難を逃れた。しかし女学校の1年生だった下の姉は、原爆ドームの近くで他の女学生らとともに家屋の解体作業にあたっていたところを被爆し亡くなった。
原爆が投下されたその日、疎開先に燃えかすのようなものが降ってきたことに危機感を覚えた父は早々に戻り、翌日には下の姉を探しに現場に向かった。人の形をしていないものも含め、何十、何百もの遺体を見た。遺体の火葬を行っていた河原にも行ったが、見つけることができず、涙をのんだという。
丸山さん一家はその年の暮れまで瓦礫で作ったバラックで生活し、父が長崎の炭鉱の島に仕事を求めたのを機に移住。丸山さん自身は20歳の時に上京し、その後相模原に居を構えた。
今から5年ほど前に、相模原原爆被災者の会の会長となった丸山さん。今年4月からは神奈川県原爆被災者の会の会長も兼任しており、6日に広島で行われた平和記念式典には、神奈川県代表として参列した。
「戦争と原爆による死は、二度と起こしてはいけない」。当時のことが語れる被爆者は高齢化により、年を追うごとに減っている。一方で被爆2世らは、ちょうど現役世代となり、語り部の活動を引き継ぐにはなかなか難しい状況にある。それでも同じ過ちを繰り返さないためにも「当時の記憶の継承に力を入れていきたい」。原爆に関する話は悲惨で耳を塞ぎたくなるような場面もあるが、現実のこととして認識しなければならないことに変わりはない。「二度と起こしてはいけない」。丸山さんはそう繰り返した。
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