宮城県女川町で育つ。震災に遭ったのは中学の卒業式の前日、下校途中のときだった。大きな揺れと同時に、友達を自宅に連れて避難したが、津波の恐れから高台の高校の体育館に身を寄せた。そこはそのまま避難所となり、不安を感じながら母や祖母らと不自由な生活を送る。父は仕事で地元を離れていたが、祖父とは3日後に自宅に戻っても連絡が取れなかった。そして1週間後、遺体安置所だった体育館で無言の対面を遂げる。周辺に住む身体の不自由な人の家々を回り、避難を呼びかけていた際に津波に巻き込まれたという。
近隣の民家が津波で流されたり、友人も失ってしまったが、感情がマヒし、涙はこぼれても心情に迫りくるものはなかったと、自身の当時の様子について回想する。
仙台の高校に進学。周囲に被災を逃れた生徒が多い中、被災者としての自身を表に出さないようにするため、毎日を過ごすのに必死だった。「自分に対して目を向けられなかった」。2年生の頃にはうつ状態に。祖父の死を受け止める以前に、生活をするのに精一杯だったこともうつの原因だった。それでも数年をかけ、徐々に悲しむといった感情を取り戻していく。こうした中で、取り組んでいた絵の制作が結実。やがて「復興ハガキ」などで注目を集めていくことになる。
絵が人生を動かす
絵との出合いは7歳のとき。石巻市のアトリエに習い事で通うようになり、発想力が育まれた。その力はすぐに頭角を現す。中学の教諭から物資の支援に対するお礼として絵を依頼されると、そこで描いた「生きる」と題した水彩画は「復興ハガキ」として人気に。そのデータはスペースシャトルにも搭載された。高校時代にも依頼から、がれき処理場の壁に「再生」と題して大きな樹木を描く。枝が強い幹となり、すばらしい花を咲かせることから「木は生命力の象徴」と考え、それを人間と重ね合わせて願いを込めた。「苦しさはきっと、優しさになるはず」。その絵は後に「希望の木」とも呼ばれた。
美術系の大学を卒業してから大手アパレルを経て、フリーランスとなって制作活動に力を注ぐ。制作にあたっては、とりわけ色の力を大切にしている。高校時代、赤などの強い色に惹かれ、色そのものが自身の背中を押してくれたと感じているからだ。「絵というより、色の力を届けられたら」と目を輝かせる。
加えて、制作する過程で見えてきたものがある。それは、絵を通じた、人々の幸せへの願いだ。自身を「上手に生きて来た方ではない」としつつ、被災したことなど苦しい経験をした者の一人として、自分にしかできない表現があると信じる。祖父が人々のために命を懸けたように、自身も人生を懸けて人のために力を尽くす決意だ。「絵で祈り、色で愛を伝えたい」
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