矢部のシンボルとして地域に根付いている村富神社。その歴史は江戸時代にまでさかのぼる。江戸から令和まで矢部を見守り続けてきた村社には、さまざまな人の思いが込められていた。
もともと矢部は「矢部原」と呼ばれ、甲府(現在の山梨県)から鎌倉や江戸へ向かう間道だった。現在本殿が建つ境内もこの道に面しており、かつて「鎌倉街道見透しの松」と呼ばれる巨松がそびえ立っていたという。松の根元には小さな祠がまつられていたことから、旅人の安泰を祈り、疲れを癒す場所として知られていた。残念ながら1926年(大正15年)に台風によって倒壊し、現在は「鎌倉街道見透しの松跡石碑」が当時の様子を伝えている。
新田開発の成功願い建立
創建は1673年。江戸の豪商であった相模屋助右衛門によると伝わる。助右衛門はしばしばこの地で馬の荷を降ろし、しばらく逗留することもあったという。そこで「ここに宿場があれば旅人も助かるだろう」と考えた助右衛門は上矢部新田開発を決意。開発の成功を願い、村富神社を建立した。開発は無事進み、周辺は旅人の宿泊場所として利用された。
太平洋戦争中には、戦地へ向かう息子の無事を願う母親や家族が参拝に訪れていたという。日清戦争終結後に平和を祈念して植えられた表参道の桜は、今もなお地元住民の心を癒す。
現総代の佐藤眞一さん(77)=矢部在住=も幼少期からこの場所に親しんできた一人。「キャッチボールをしたり、鬼ごっこをしたり、夏になればみんなでセミを取ったりした。思い出の場所です」と懐かしむ。近隣在住の三上理沙さん(42)は、七五三やお花見など、家族の行事では村富神社を訪れることが多く、自らの成長を振り返った時、いつもそこには村富神社があったという。今では3児の母。子どもたちと村富神社で休日を過ごすことも。「子どもたちは境内に入ると元気に走り出してしまう。普段は接点がないような違う学年の子どもたちと遊ぶ姿もよく見かけるので親としても非常にうれしい」
思いをつなぐ
「コロナが早く収束しますように」「受験に合格できますように」さまざまな願いが込められた絵馬が並び、鳥居の前を通るたびに御社に頭を下げる人の姿も頻繁に見られる。「地域に愛された場所。この神社に来ていろいろな世代の人が言葉を交わしていくことで地域のコミュニティが生まれる。残していかなければならない」と佐藤さん。矢部を見守ってきた神社はこれからも地域を温かく見守っていく。
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