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戦禍伝える痕跡 今なお 青根防空監視哨の轟音

社会

公開:2015年7月16日

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 国道413号線を山中湖方面に向かうと広がる、自然豊かな町並み。旧津久井町青根(現相模原市緑区青根)の小山の頂には今なお防空監視哨の跡地が残され、当時を伝えている―。

 防空監視哨とは、敵軍航空機をいち早く探知・発見し、防空飛行隊や高射砲隊などへの通報と消防、避難などの防護活動の準備などを行うための施設。第二次世界大戦中、戦局の拡大に伴い1941年頃から防空態勢が強化されると、津久井地域には相模湖・川和(現中野)・青根の三カ所に監視哨が設置された(諸説あり)。この地には聴音壕(ちょうおんごう)と呼ばれる深さ2メートル程の丸穴が掘られており、航空機の音が拾いやすいよう周りをコンクリートや石で固め、屋根は目立たないように杉皮などで覆った。聴音壕は探知機能のほか、情報室や仮眠室としての機能も果たしていた。

 戦時中の青年学校時代、監視哨の哨員として敵機の監視にあたっていた青根在住の長田博さん(90)は、当時をこう振り返る。「東京目がけ、無数の大型爆撃機が飛んできた。まさかこんな山奥に来るなんて。恐ろしかった」。青根の監視哨は、1942年のアメリカの爆撃機による日本本土の初空襲や、アメリカ・イギリスへの宣戦布告などを考察すると、1941年頃に設置されたと推測される。

 監視哨では、哨長1人と副哨長以下6人が5組編成され、一昼夜24時間体制で勤務。哨員は2人1組となり、一人が聴音壕での探知役、もう一人が目視での監視役を担った。食事は近くの旅館で出前をとり済ませることもあり、2時間を目途に交代しながら仮眠や休息をとっていた。哨員には長田さんのように青年学校の生徒も多かったが、気を休める暇などはなかったという。「山頂にはゴオォという航空機の爆音と、サイレンの音が鳴り響いていた」と長田さん。無慈悲に航空機の爆音が轟くと、厚木の監視隊本部に電話で連絡。監視哨情報通信用紙によると、敵味方の区別なく、航空機の発見時刻や方向、機種、高度や進行方向などが伝えられていたという。

 県内の防空監視哨体制の全容は定かではないが、厚木監視隊のほか、横浜監視隊や小田原監視隊が置かれていたとされている。青根の監視哨はその一翼を担ったとされ、情報通信の一部が残るなど当時が伝わる数少ない場所となっている。

 監視哨跡地には現在、展望台があり、青根の町と道志の山並みを一望できる。「(平和を通じて)この豊かな自然が、いつまでも続いてくれたら嬉しいね」
 

戦時中、哨員として働いていた長田さん
戦時中、哨員として働いていた長田さん
青根の防空監視哨跡。今なお聴音壕の爪痕が残されている=7月2日、緑区青根
青根の防空監視哨跡。今なお聴音壕の爪痕が残されている=7月2日、緑区青根

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