「こういう宿命なんだと受け入れるしかない」。東日本大震災の大津波によって、緑豊かで歴史・文化に富んだ町が多くの人命とともに一瞬にして消えた─今まであった日常が地獄へとかわり、そして5年、10年と続く復興への戦いも始まったばかり。岩手県陸前高田市長の戸羽太氏に震災や復興、家族、そして青年期に過ごした町田市について単独インタビューした。
(聞き手=町田編集室・座間政彦 6月27日ホテルザエルシィ町田で)
―3月11日の東日本大震災より約1か月前の2月14日に新市長として初登庁しました。たった1か月も経たない間に陸前高田市民の1割弱にあたる1万5千人以上が犠牲、行方不明になってしまいました。
(戸羽市長)『こういう宿命なんだ』と受け入れて行動するしかありません。実際は受け入れることなどできていないですが、そんなことを考えている時間はありません。
2万3千人強だった陸前高田市で現在(6月27日)までに、1530人が収容され、580人が行方不明になっています。収容された方の中には身元が分かっていない方も多いので、最終的な犠牲者は1700から1800人ほどになるでしょう。
―多くの方が亡くなり、現在も不自由な生活を強いられている人が多くいます。
(市長)3月11日の夜、生き残った皆さんが避難所で『こんなにオニギリが美味しいとは思わなかった』と話していましたが、時間が経つにつれ、『生きていくのも地獄』という思いになっています。仕事もなく、住むところも安定しない。将来も未確定なことが多くて、絶望の中にいます。被災者にとって日本全国の皆さんが声をかけてくれる、応援してくれることが何よりも励みになります。
「陸前高田市民にとっても町田は特別の町になった」
−市長自身のご家族も被災されました。
(戸羽市長)中1、小5の息子たちは無事でしたが、妻を津波で亡くしました。当初、行方不明でしたが、友だちや消防団の方々が懸命に探してくれ、4月6日に安置所で再会しました。息子2人には見つかったことや荼毘に付したことも黙っていました。仕事柄、家にいることが少ないため、2人ともお母さん子で、妻の死が息子たちにどれだけショックを与えるか分からなかった。葬儀の前日に長男に、当日に次男に話しました。長男は妻の遺体が見つかったことを知っていたようですが、次男は3日間泣き続けました。次男にとっては行方不明のままの方が良かったのかもしれない。
−自分自身の中でどの様に対応されましたか。
(市長)市民の皆さんもそうですが、「あの時、ああしていれば」と悔やむ気持ちでいっぱいです。「俺と出会わなければ」、「俺が岩手に戻ってこなければ妻を亡くすことはなかった」と今でも悔やみます。そして、息子たちにも一緒にいてあげられなく、「悪いな」という気持ちです。自己嫌悪になることもあります。
−なぜ、そこまで頑張れるのですか。
(市長)市民の頑張り、そして市職員の頑張りがあるからです。市職員295人のうち68名、嘱託など合わせると105名が犠牲になりました。市役所に津波が迫っているときも市民を助けようとして犠牲になった職員も大勢います。家族みんなを亡くした職員もいます。5月に復興対策局を設置しましたが、担当になった職員は両親、奥さんを亡くし、昼は『被災者の前では強くならなくては』と毅然と仕事をしていますが、夜になると朝まで泣いていました。そんな人物だから敢えて担当にしました。心のキズは簡単に癒されないが、新しいものにチャレンジする心を持たなければ、先に進めませんから。
−市長、政治家になって良かったですか。
(市長)政治家になって良かったと思う。政治家は自己犠牲が必要。市民、国民の幸せを考えるのが政治なのだから、もう一度原点にかえらなければ。
−3歳から28歳まで町田市で過ごされました。
(市長)幼稚園、小中高、と町田市で学び、就職して陸前高田に戻るまで町田にいました。友だちの影響で矢沢永吉さんのCAROLに憧れ、バンドを組み革ジャンにリーゼントという永ちゃんになりきっていました。ポマードのおかげで、今みたいな髪型になってしまったけど。バンドのみんなで陸前高田のスタジオで歌ったこともあったな。高校卒業後、『アメリカに行こう』と急に思い立ち、留学ジャーナルを片手に同雑誌の編集部に相談しました。永ちゃんの歌にあるルイジアナにしようか、それとも当時のテレビ番組にあったオレゴンにしようかという程度の知識だったけどね。結局、フロリダのタンパで3年ほど留学。思い出と言えば、タンパにプロレスの“神様”と言われたカールゴッチのジムがあって、お孫さんにサインをもらったよ。当時はプロレスが大好きで、特にアントニオ猪木が好きで何度も観に行った。永ちゃんと猪木だったかな、青春時代は。
−町田時代の同級生らが支援に立ち上がりました。
(市長)本当にありがたく思っています。多くの方が義援金や物資の提供、ボランティア活動をしてくれています。妻の葬儀にも来てくれた友だちもいました。陸前高田の市民もびっくりしています。市民の皆さんも町田には特別な感情が湧いて、親しみを感じ、そして「私たちを忘れないで」と切に願っています。忘れられてしまうことを一番恐れています。復興への戦いは始まったばかり。これから5年、10年と続きます。皆さんの声援が、何よりも必要です。私たちは何年かかるか分かりませんが、みなさんに誇れる町を必ず作ります。その時まで声援を送ってください。先の長いお願いですが、それが切実な思いです。
−ボランティアは依然として必要ですか。
(市長)ボランティアの方はこれからも必要です。避難所も7月中には無くなり、仮設住宅などに皆移る予定ですが、被災された方々だけでなく、被災を免れた市民も、通常の生活を送ることができません。これまで市や団体が提供してきたサービスも限られ、また買い物するところも本当に数か所しかありません。お年寄りたちが生活するためにもボランティアが必要ですし、様ざまな場面でもボランティアの皆さんの力が必要な状況です。お茶を飲む所を作ってくださることも市民は喜ぶでしょう。行政に出来ないこと、手が回らないことをNPOやボランティアの皆さんに協力してもらいたいと思います。
−お忙しい中、ありがとうございました。
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