陸前高田市の自治会長で、成瀬台中学校で被災当時、復興の現状などを紹介した 菅野徳一さん 広田水産高校仮設住宅 66歳
「助け助けられ、感謝」
○…あの時、陸前高田市の中心部にいた。初めての揺れに慌てたが、高齢のご両親や奥さん、そして愛犬が待つ自宅に急いで戻った。家は半島に位置し、津波が心配でアクセルを目いっぱい踏んだ。帰宅したときは、地域の人の多くは津波を恐れ高台に避難していた。地区会長として誘導とともに海の様子を見に行った。海岸沿いにある防潮堤に登ると、まだ津波の気配はなかったが、少しすると目の前の小舟が揺れ、目を沖に移すと300mほど沿岸の防波堤、そしてその向こうの灯台が津波に飲まれるところだった。目を足元に移すと知らないうちに海が30cm程まで迫っていた。
○…陸前高田市出身。高校、大学は仙台、福島で学んだが、卒業後、高校の体育教師として故郷へ戻った。定年退職後、63歳で地区会長になる。被災時、避難を呼びかけるために地域を回った。「もう年だから、いつ死んでもいいよ」と頑なに避難を拒んだ高齢者も数人いた。その中には津波の犠牲になった人もいる。「人に迷惑かけたくない一心で拒んだのだろう」
○…地域の200人ほどがお寺に避難した。お米も毛布も少なかったが、みんなで分け合った。極寒と心細さの中、みんなで知恵を出し合い、役割を分担して被災初期を乗り越えた。「3日もすれば支援物資が届き始めた。東京の皆さんも3日分の水、食料、懐中電灯、ラジオは用意したほうが良い」と呼びかける。成瀬台中の生徒たちには「真っ直ぐな目をして聞いてくれてありがとう。陸前高田から来て良かった」とニッコリ。
○…「全国からの支援に本当に感謝」。これからは自立再建のために協力してほしいという。被災者が希望を見いだせるのは「働き口」。そして「心のケア」だという。「男はダメ。することがないと、引きこもってしまう。仕事があれば変わるだろうけど」。話しながらお菓子を半分にする―「これ震災で教わったこと」と差し出してくれた。
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