今、被災地では― 町田から被災者へ 町田出身の被災者たち 将来が見えない不安 岩手県宮古市 攝待千穂さん(町田出身)・礼子さん
「これからのことが不安。仕事はどうなるのだろうか、子どもたちの時代になったらどうなってしまっているのだろう」
町田市出身の攝待(旧姓西山)千穂さんは現在、岩手県宮古市でご主人と息子さん2人の4人で暮らしている。ご主人の兄夫妻と隣同士で、家は無事だったものの、ご主人のお兄さんが経営し、ご主人も働いている鉄工所は津波に流された。
お兄さんの奥さん攝待(旧姓・山口)礼子さんは相模原市中央区大沢出身。
「うちより大変だったところは、いっぱいあるけど」。2人はいつもこの言葉から震災当時や現在の話が始める。
震災直後、ライフラインは全て止まり、水は近くの川まで汲みに行った。食料も少なく、雑炊にして量を増やして食べた。電気は4日後、川の水でお風呂に入ってのは5日後、水が復旧したのは1週間後だった。
避難所へ行けば食料があることは分かっていたが、「家を流された人の方が大変」と行けなかった。「色々な人が声を掛けてくれて、人って本当に温かいなと改めて思いました。地域のコミュニティがあったから、互いに気にかけ、助けられた」と振り返る。「震災を体験して、コミュニティの大事さを思い知らされせた。町田は人が多い分、コミュニティがしっかりしていれば、被災しても私たちよりももっと色々なことができると思います」
今は以前の生活を取り戻しているようだが、今後の不安はご主人の仕事。船のエンジンを整備している。「今は復興の仕事があるけど、それが無くなったら。多くの船が沈み、以前の様に仕事があるのだろうか。そして子どもたちの将来。宮古に雇用の場が無くなれば子どもたちも宮古を去ってしまう。どんどん宮古の人が少なくなってしまいそう。仕事さえあれば、失ったものを取り返すことができる。そしてもう一つ不安なのが、またあの地震・津波が来るんじゃないかということ。これ以上、家族や知り合いがバラバラになってしまったり、生活が変わってしまうことが怖い」
今後の支援について「被災された方はたぶん、いっぱい話しがしたいのだと思います。聞き役のボランティアも必要だと思います」
攝待千穂さん 73年生
鶴川第四小、真光寺中、
横浜国際女学院翠陵高卒
(現・横浜翠陵高)
攝待礼子さん 73年生
相模原市立大沢小、大沢中、鶴川高卒
|
|
|
|
|
|