「日本人にとって忘れてはならない『八月十五日』がまた巡ってきます。今や戦争を知らない世代が多くなり、急速にその記憶が薄れゆく中で、風化させないために私はあの戦争のことを伝えたいと思います」
3歳で満州へ
八王子を代表する女性経営者の1人、町田典子さん((株)クレア会長/八王子商工会議所副会頭)は軍人だった父のもと、満州で終戦を迎えた。引き揚げ船での過酷な経験は、2004年に出版された証言集「私の八月十五日」などにも収められている。72回目の「敗戦の日」を迎える前に、町田さんに当時の記憶をたどってもらった。
町田さんは1939年、3歳のとき、満州で軍務に就く父の所へ渡った。当時の満州は、戦闘の雰囲気はなく、穏やかな毎日が流れていた。
しかし敗戦(1945年)と同時に状況は一転した。
数日のうちにソ連軍が侵攻してきた。町田さんがいた旅館にも銃を構えた3人の兵士が。目の前で父は連れていかれた。「助け合って、必ず内地に帰りなさい…」
父は連行された後、道路工事など強制労働をさせられていた。ある日の明け方、何とか家族に会おうと、鉄条網で囲まれた収容所から脱走を試みた。20人の日本人と逃げ出したが、多くが銃で撃たれた。助かったのは父を含め4人だけだった。
そして父は三日三晩歩き通し、旅館を探しだし家族との再会を果たした。
ようやく喜びの帰還となるはずだったが、そこで待っていたのは「死線をさまよう」道のりだった。
引き揚げ船「興安丸」には甲板までぎっしり3000人もの人が膝も伸ばせず重なりあっていた。不衛生な環境で伝染病と栄養失調が蔓延。毎日誰かが水葬されていた。
町田さんも重い栄養失調で意識がもうろうとする日々を過ごしていた。「内地に帰る。諦めない」。両親は強い思いで町田さん、4歳の弟、1歳の妹を守った。
船は1カ月後、長崎・佐世保港に入った。「私は重病でしたが、その時の光景ははっきり覚えています。出迎えの人が真っ白いおむすびを渡してくれた。『長い間、ご苦労様』と」――。
寄せられた思い出
町田さんは「私の八月十五日」だけでなく、戦後50年、60年のタイミングでこれらの体験記を出し、戦争への思いを語っている。それらの中で、幼い頃に過ごした満州の記憶を後に残したいと述べており、そのことに共鳴した読者から、町田さんの元へ当時の新聞や写真、手紙(軍事郵便)、胸章など「戦争の記録」が届けられた。石川町にある同社西東京支社の3階には、それらの資料が大切に保管されている。
町田さんはひとつひとつの思い出(資料)を手に取ると、小さく「泣けてくるね」とつぶやいた。「戦争経験者として、この平和の尊さを後世へ伝えていきたいです」。満州についてのミュージアムを作るのが今後の夢という。
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