「二度とこのようなことがあってはならないと訴え続けてきました」。そう語るのは一ノ宮在住の石田喬子さん(86)。75年前の8月6日、11歳の時に爆心地から2・4Km北にある大芝国民学校で原爆の被害にあった。
石田さんは両親と姉、兄、弟の6人家族。8月6日の朝、父は出張で、姉たちは学徒動員や学童疎開で市内にはおらず、母と2人で自宅にいた。
普段、空襲警報が鳴ると学校へは行かなかったが、早朝に出た警報が解除になったため登校した。教室に鞄を置き、裸足で校庭の柳の木陰まで行き、朝礼まで友だちと一緒に待っていた。誰かが「B29だ」と空を指した。朝日がまぶしく手をかざして空を見上げると、飛行機雲を目で追った。その時だった。「ピカッ」と目の奥の方まで光った。続けて大きな地鳴りのような音と同時に、校庭の土が砂煙として舞い上がった。周りにいた友だちが見えなくなり、校庭に作った畑の畝を通りながら一人で必死に防空壕へと這っていった。壕に入ると「火がついているから消しなさい」と誰かに言われた。着ていたのは白のブラウスと紺のもんぺ。うす暗い中で胸元をみるとブラウスのプリント模様の部分が焼けていた。
しばらくして壕の外に出ると校庭が見渡せるようになっていた。自宅のある学校の南側の方に行こうとすると「そっちは行ってはダメ」と言われ、学校の北側を歩く行列に連なった。途中で泥水のような黒い雨が降ってきた。「ガソリンを撒き、火をつけ全滅にする気かもしれない」と大人たちは心配していたが火照った体にはちょうど良い雨だった。
ケガはなかったものの、爆発の熱線で肌を露出していた顔や首、腕、両手、両足すべてに火傷を負った。避難している途中、担任の先生が背負ってくれて、馬車に乗せてもらった。「女の子なのにかわいそうに」という声が聞こえたが、逃げるのに必死で痛みを感じることはなかった。
次は私
8Kmほど離れた寺に着くと体調が悪化し寝たきりの状態に。翌日、朦朧としている中で聞き覚えのある声で自分の名前を呼ばれた。母だった。自宅にいた母は一命を取り止め、倒れたタンスの中から着替えを持って逃げたという。「あちこち探してきてくれたみたい。声を聞いて安心しました」。母は十分な手当てを受けられないまま、翌年7月に他界した。
「天皇陛下の命で治療に来ました」と言う兵隊から治療を受けたが赤チンを塗るだけ。日々寝て過ごしているため時間の経過はわからなかったが、毎日のように誰かが亡くなり、同じ校庭にいて一緒に収容された4人のうち2人も息を引き取った。「30年経った頃、兄から『周りが次はあの子(私)だと言っていた』と言われました」
1カ月以上寝たきりが続き、自分の腕の火傷を見て生活する日々。傷が乾き始めると柱につかまって立ってみた。頭は後ろにのけぞり、膝に力が入らない。毎日練習をして9月末には歩けるようになった。その時初めて自分の顔を鏡で見た驚きは今でも忘れない。「赤鬼」のように真っ赤な顔。赤みが抜けてくると今度は黒くなった。他人に見られたり、鏡を見たりするとその変わり果てた姿に気づくが「両親や姉兄に毎日その姿を見せて心配をかけたことがつらかった」と当時の思いを吐露する。11月には高い熱が出て歯も3本抜けた時に「もうダメだ」とみんなが思ったようだった。
それぞれに考えて
生き永らえ、転校した小学校で卒業。火傷はケロイドになり時々かゆみはあったものの、その後大きな病気はせず、22歳の時に地元で結婚。夫の仕事の都合で上京し、2人の子宝にも恵まれた。1967年に多摩に転居してきた。
その後、84年に発足した多摩市に住む被爆者の会「多摩やまばと会」にも入ったが、他の人が語り部をしていたことに加え、「子ども時代の話で空想になってしまうのではと自信を持てなかった」と体験を語ってこなかった。月日が経つとともに会員が次々と鬼籍に入り「私でも役に立つのであれば」と2000年に初めて小学校で体験を語った。話す時は淡々と体験したことだけを事実として伝えるようにしている。「相手に謝れとかそういう感情はない。話を聞いてくれた人たちがそれぞれに考えてほしいと思って」
11歳で体験したあの日。同世代の多くの子どもたちが命を落とした。収容された寺で次の日に目覚めなかった友。体の不調を訴えながら旅立った友もいた。「なぜ命を落とさなければいけなかったのか。その無念さを伝えることが生きている私の役目」と力が入る。自身の体調や年齢のこともあり、いつまで語れるかわからない。「何とか知恵を絞り、話し合い理解し合えば戦争は回避できるはず。これからの人たちにぜひお願いしたいです」。次世代の人たちに思いを託す。
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