青蔭フサさん(94)は、大正8年、旧渋谷村の曹洞宗、常泉寺22代住職で渋谷小学校北分校(現桜丘小)で教鞭をとる青蔭敏雄(びんゆう)の次女として生まれた。渋谷小から大和学園を経て昭和12年に小田急電鉄に入社。桜ヶ丘で養豚場を営む小菅家の長男、豊一と縁を結んだ。
婚約者の小菅豊一は当時、陸軍中尉。甲府49連隊に志願し、婚約からほどない昭和16年に満州へ渡り、200人の部下を率いて黒竜江沿岸で対ソ国境警備にあたった。残されたフサさんは、義父母らが見守る中、写真のなかで凛とする豊一と結婚式を挙げた。
「あの頃はいろんな思いがあってね、なかなか結婚しないのよ。私たちは、結婚する間がなくて離れ離れになっちゃったの」
そんな二人は昭和18年5月に再会した。
豊一に呼び寄せられたフサさんは下関から釜山に渡り官舎がある北安(ペイアン)を目指した。その道すがら満州国首都の新京で軍服姿の豊一と再会した。二人はそのまま新京神社で結婚式を挙げ、北安で新婚生活を送った。豊一が官舎に戻るのは月に数日ほどだったという。
それからほどなく戦局が悪化。昭和19年夏に豊一は南方戦線のレイテ島に旅立つ。フサさんはほどなく内地へ引き揚げたが豊一が戻ることはなかった。68年が経った今も、遺骨はおろか遺品すら戻っていない。
将校の妻でもあり官舎での暮らしは恵まれていた。陸軍の当番兵5人程が身の回りを世話し、乳呑児を抱える他の将校の妻らとともに官舎で四季を過ごした。
部隊がレイテ島に赴く前、フサさんは当番兵らに「手紙を書きなさい。私が届けます」と促した。当番兵の一人、横浜で貿易商を営む家のせがれだった「本郷」には許嫁(いいなづけ)がいた。フサさんは、戦火を逃れながら横浜に「本郷」の両親と許嫁を訪ね、手紙を手渡した。
「手紙を読んだ途端に突っ伏して泣いて、それを両親がたしなめるのよ…『元気で行ったというのだから…奥様に失礼だよ、ほら』ってね…」。
当時の記憶が脳裏によみがえったフサさんの目にはうっすらと涙が浮かんだ。
「今はね、毎日の明け暮れが本当にありがたい。戦争を背負い込んだ世代だったけど、もうみんな死んじゃったわね」
昭和24年に23代住職の恭道を婿に迎えたフサさんは、当代住職の母として穏やかな日々を送っている。
※文中の故人は敬称略。
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