10月13日開催の「平和の集い」で横浜大空襲の体験を語る 和田 節子さん 今里在住 90歳
「生きる」を伝える
○…横浜大空襲が起きた時、横浜市内の十全病院(現横浜市立大学附属病院)で看護学生だったことから、空襲時には不眠不休、飲まず食わずで被害者の手当てにあたった。怪我を負った人たちが次々とトラックで運び込まれてくる中、止まぬ爆撃に自身の身の危険も感じたという。「病院のまわりは焼け野原に。恐怖の時間でしたので、とても長く感じました」と振り返る。この記憶を伝えたい―。そんな思いを胸に講演会に臨む。
○…8人兄弟の4女でお転婆娘。幼少期には「男の子みたいね」と言われるほど活発だった。姉ばかりで男の子がいなかったため「うちは肩身が狭い。国のために働きなさい」という父の言葉を受け看護師を目指すように。20倍の難関を突破し養成学校に入学。厳しい寄宿生活と実習を経て資格を取得した。父は愛娘を常に気にかけ、横浜大空襲の翌日には今里から横浜の病院まで自転車に乗り、お重に詰めたおにぎりを届けに来た。「焼けて目印の建物もなくなってしまったのに迷いながら来てくれました」と話す姿に家族の絆を感じる。
○…助産師の資格も取得すると、父がくれた土地に23歳の時開業。24歳で結婚し、妊娠中や子どもたちが生まれた後も子守や実家に預けて助産師として働き続けた。当時は家庭分娩が一般的だったため、夜中に妊婦宅に呼ばれることもしばしば。大雪で電車やバスが止まってしまった時は歩いて行くこともあった。取り上げた新生児は千人近く。「主人の協力も大きかったですね」と感謝を語る。
○…現在息子夫婦と暮らす。この取材に付き添うため、息子夫婦は勤め先から早引きして駆けつけた。「楽しみは毎週のように遊びに来るひ孫の顔を見ること」と微笑む。家族の温かさが明日を生きる糧となると感じた。
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