海老名市国分寺台在住の甘利和美さん(90)の戦争体験の手記を収めた書籍が8月30日に出版される。奈良の女学生だった戦時中、飛行場造成のための土運びに動員されたことを振り返り、「当時の誰もが戦争の影響を受けたということを伝えたい」と話す。
「青春奪われた」元女学生
甘利さんは1931(昭和6)年9月7日、大阪で石炭商を営む家に生まれ、3歳で奈良の大福町に移り住んだ。尋常高等小学校4年のときに開戦。「朝早く家のラジオで勇ましい音楽が流れていた。ラジオがある家は数軒で、戦時中も情報は他の家に比べ入ってきやすかった」と話す。
高等女学校に入学すると通常の授業時間が減り、農作業や勤労奉仕の時間が増えていった。父が仕事で話している姿にあこがれ、勉強したいと思っていた英語も「敵国の言葉」として時間割から消えた。「正直がっかりした」が、その気持ちを口にできる雰囲気ではなかったという。
一日中土運び
2年生になると大和盆地での飛行場造成に動員され、一日中土運びに従事するようになった。「真っ黒になりながら、だれも文句言わずに取り組むのが普通だった。休憩中に、予科練の人たちが歌ってくれたことが唯一の楽しみだった」と、懐かしみ口ずさむ。
広島と長崎に「新型爆弾」が落ちたことはラジオで知った。しかし先生も親も何も言わず、土運びは依然として続いた。8月14日の帰り際、先生から「明日の奉仕はお休み。放送を聞くように」と言い渡され、翌日玉音放送を聞いた。「雑音で聞き取れなかったものの、盛んに上空を飛んでいたB29が一機もいなくなったのが不思議だった。いよいよ皆で自決かと思った」という。
戦後は教師の道
終戦の翌年、胃がんで父が亡くなった。父の代わりに一家を支えようと師範学校に進み、小学校の教員として奈良で7年、大阪で10年勤務した。大阪で結婚し、夫の東京への転勤を機に教員を退職。神奈川に越し、海老名に居を構えた。その後は子育てをしながらも、障がいのある子どもの家に出向いて指導をする講師や、不登校児の学習支援に長年携わった。「私は戦争で教育を受けられない期間があった。子どもたちに教育の機会を作りたいという一心だった」と微笑む。
甘利さんは90歳の節目に当時の記憶を手記にした。「戦争で大変な思いをされた方は大勢いる。私は幸い空襲や飢餓に苦しむことはなかったので、私の経験を進んで語ることははばかられた。ただ90歳を迎えてウクライナ侵攻も目にし、青春を奪われた一人の女学生の思いや戦争の悲惨さを伝えずにはいられなくなった」と心境を語る。
甘利さんの手記は『境界vol.2大東亜戦争の記憶』(ユニコ舎)に収録され、8月30日に出版される。
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