今夏、私たちは戦後70年の節目を迎える。戦争体験者の高齢化、語り部の減少が問題になる一方、当時の様子を書き残し、今に伝える人もいる。そこで本紙では、現在座間に暮らす戦争体験者や、第二次世界大戦前後の座間を知る人、物、場所にスポットをあて、シリーズ連載する。
第1回 時代を映し続けた街・相武台
A4用紙20枚に渡り、昭和前期の相武台を綴った1冊のレポート。ページをめくると、「中っ原」と呼ばれた昭和初期の相武台に暮らした人々の息遣いが見える。手掛けたのは、座間市相武台に住む片野晴雄さん(78)。「何か、形に残さないと」。そんな思いから自らの経験と母の綴った手記などをまとめ、「わが町 相武台を綴る」と題した。
レポートは1927年までさかのぼる。同年に小田急線が開通し、現在の相武台前駅の場所に「小田急線座間駅」が誕生した。駅前には小さな商店街が形成され、周囲にはおよそ30件余りの民家。1937年に陸軍士官学校が移転してくると駅名は「士官学校前」と改められ、行幸道路にはバスやタクシーとともに馬にまたがった陸軍将校の姿も見られるようになった。
同年12月、昭和天皇による行幸が行われ、当時の駅舎には豪華なカーテンがひかれた専用の部屋が設けられた。「住民はみんな、天皇陛下が通り過ぎるまで地面に手をついて。お顔を拝見することなどは、決してできることではなかった」
1939年9月、ついに大戦に突入。相武台のまちも、にわかに慌ただしさを増した。数年のうちに戦争は激しさを増し、士官学校の一角には高射砲陣地が置かれた。住民は、敵機艦載機による機銃掃射におびえる日々を過ごした。
1945年のある日、住民たちは命の危険にさらされた。真夜中の相武台に一発の焼夷弾が落とされたのだ。弾は片野さん宅の真上をヒラヒラと舞い、住民たちを絶望させた。弾は風に流され、現在のゴルフ場付近のワラ置き場に落下。大量のワラはぼうぼうと3日間にわたり燃え続けた。「焼夷弾が落ちた時、母は『もうだめだ』と思ったそうです。それが、幸運にもケガもなく、焼け出された人もいなかった」
唐突に迎えた終戦の日
戦争の終わりは、突然訪れた。その日は、からりと晴れた真夏日だった。
正午になる少し前、一人の兵士が家を訪れた。「誠にすみませんが、ラジオを聞かせてくれませんか」。沈黙の中、ラジオから流れる昭和天皇の厳かな声だけが響いた。当時、片野さんは小学校3年生。放送の内容はよくわからなかったが、兵士が静かに涙を流しながら直立していた様はくっきりと記憶に残った。
その日の昼過ぎ、厚木飛行場から多くの雷電が大山方面に飛び立っていくのを見た。山に吸い込まれるかのように小さくなっていく機影を、ゆっくりと見送った。「すぐ1週間後には、米兵を乗せたジープが街を走っていた。この街は、常に時代を映し続けた街だったと、そう思うんです」
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