東京2020オリンピック・パラリンピックの開幕まであと2年。市内船子の勝又正博さん(79)は、1964(昭和39)年の東京五輪を伝える新聞記事のスクラップノートを大切に保管してきた。
長野県下伊那郡阿南町出身の勝又さん。父の勧めで警察官採用試験を受け、高校卒業後に神奈川県警で社会人生活をスタートさせた。
職場で複数社の新聞を購読しており、全紙に目を通すのが日課だった。署内で読み終わった新聞は廃棄処分されることを知り、「なにかひとつやってみよう」と、五輪開催を間近に控えた夏、関連記事のスクラップを思いついた。朝日、産経、東京、毎日、読売の5紙を並べ、タイトルや記事内に「五輪」の文言を探してはもれなく切り抜きノートに貼った。表裏2面に記事があった場合は社名を控えておき、退勤後に新聞を買い足したという。
通し番号「1」のノートの最初のページは、64年7月26日の朝日新聞夕刊。国会議事堂周辺で進む道路整備の様子を空撮写真付きで伝える記事を皮切りに、五輪中継の通信衛星システムの紹介から選手村の宿舎割り当て図まで、勝又さんは新聞の罫線に沿って几帳面にハサミを入れ、スクラップを続けた。
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勝又さんが職務で東京五輪に携わったのは、横浜市内を走る聖火リレーの警備の応援など。開会式の10月10日は非番だったため、電車を乗り継ぎ国立競技場へ。入場行進に向かう柔道オランダ代表のアントン・ヘーシンク選手の姿に心躍らせ、ブルーインパルスが青空に描いた五輪マークは「今でもくっきり覚えている」。バレーボールの”東洋の魔女”や、マラソンの円谷幸吉らの活躍はテレビで観戦した。
24冊目のノートの最後のページは、各国選手たちの帰国を報じる10月25日付けの読売新聞夕刊。開会式の日をはじめ、たった1日の報道で1冊が埋まるほどの記事の量からは、当時の溢れる熱気が垣間見える。いずれのノートの表紙にも、達筆な同僚がしたためた「東京オリンピック大会」の文字が、水茎の跡鮮やかに力強く残っている。
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最後にノートに触れたのは、藤沢署勤務中の96(平成8)年。署員やその家族らが、写真や書道などの作品を持ち寄って展示する機会に、勝又さんは手製の説明パネルを添えてノートを飾った。今も残るパネルには、こう記してある。「(前略)戦後19年みごとに復興、日本人が自信を取り戻し、経済大国ニッポンへの分岐点となったといわれる東京五輪に私自身心酔し、夢中で新聞の切抜きをしたことが昨日のように思える(後略)」
735日後に迫った、2度目の東京五輪。「スクラップはもうしない。体が動けば生で見たいね」。
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