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綾瀬版 公開:2018年1月12日 エリアトップへ

〈第38回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる38 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2018年1月12日

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 北条時政、当面の政敵を屠り去った。北条氏と比企氏、情勢判断、情報量の違いがあったのか!?北条時政・北条一族の討滅を謀った比企能員(よしかず)、将軍・頼家を擁護して、頼朝の後継者として揺るぎ無い二代将軍に育成していかねばならぬ立場だったが、図らずも頼家を窮地に陥れ自らも滅亡していく。時に建仁3年(1203年)の事だった。「比企氏の乱」と言われている。 頼家、建仁2年(1202年)、征夷大将軍に就任、将来を嘱望された若き将軍だったが、外祖父・北条時政、母・政子、権力への志向か、鎌倉幕府の安泰だったのか!?苦衷(くちゅう)、苦渋の決断だったか…?頼家、将軍就任僅か1年、伊豆修善寺、桂川の畔に佇む祠に幽閉され孤立無援、絶望の闇を見詰めながら…。翌年、北条氏の手に依って22歳の短い生涯を閉じた。冥界より父・頼朝、憤怒の形相で血涙を流していた事だろう。北条時政、一歩間違えば大きな争乱となる仕事だった。鎌倉の府の幕閣、有力御家人達、両陣営についていない人達、日和見をしていた人達、固唾を呑んで見守った事だろう。

 当然、渋谷高重、一族・姻戚・縁戚に連なる氏族間との連絡・打合せは密にしていたが、和田氏・横山氏等、本来北条氏と懇意では無い氏族達の言動を慎む様に父・重国の戒めの言葉を伝達し、己も特に出府した時など自制を要した。此の儘、北条氏の勢力が伸びていけば、北条氏に同調を渋る氏族に調略の触手が迫るだろう。当然の事だった。今は現将軍家の外祖父であり、また政子は実母であり、尼将軍と謳われる存在になっていた。

 時政・政子、頼家の弟・実朝を三代将軍の座に就け、建仁3年(1203年)、時政は執権となった。三代将軍・実朝も、二代将軍・頼家と同じく傀儡将軍だった。ただ実朝は、時の朝廷は後鳥羽上皇に主催され、詩歌(しいか)に造詣が深く上皇の好意を受け、実朝の名も征夷大将軍をも拝命した。幸い実朝、政事に意欲を示さず?詩歌の面で上皇と絆を築き、「金槐和歌集」まで著(あらわ)した。

 時政、実朝を政事の埒外に飾り、鎌倉の府に於いて最高の権力を掌中にしていた。子息・義時も時政の後見があったにせよ、幕閣に有力御家人達に対等以上の対話が出来ていた。今は時政と言えども、我が子息・義時に迂闊な言動は遠慮する程であった。古代朝廷に、嘗て設けてあった官職だったが、北条一族、故実を引用し、鎌倉幕府に執権職を設けそれを襲った。

 今は時政、初代執権として鎌倉の府を睥睨した。北条氏・一族に心を寄せる氏族や御家人達にとっては、心強い展開だったが、北条氏へ同調出来ない多くの氏族や御家人達もいた事だろう。その中に有力幕閣の畠山重忠、三浦・和田・横山氏等々、そして渋谷一族、相模国中央に位置し、地形的に恵まれていない面もあったが、肥沃な土地に恵まれ領地拡大を図る北条氏の標的となろうとしていた。

     【文・前田幸生】
 

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