高校生活全てを捧げた3年間、終わりは呆気なかった――。
小学校低学年から地元鷹取の少年野球チームに入り、中学でも迷いなく野球部へ。しかし部員はたったの6人。普段の練習は付属の高校野球部に交ざり硬式球で行い、公式戦は他の運動部から助っ人を呼ぶことでなんとか成立させた。煮え切らなさを感じながらも「高校野球のための準備」と割り切り鍛錬に励んだ。
だが、高校進学で待っていたのは厳しい監督による猛練習。横浜市釜利谷にあった専用グラウンドまではバス送迎が行われていたが、授業や委員会活動で少しでも遅れるものなら、現地まで走って向かわざるを得なかった。「いわゆるお坊ちゃん学校だったけど、野球部だけは特別。異次元の厳しさだった」と苦い顔で当時を振り返る。
つらさと厳しさの分だけ成長できる、そう信じられていた時代。誰かがミスを犯した際は、理不尽にも守備の要となる捕手が激しく叱責された。「アイツが怒られないよう、俺たちが頑張ろう。失敗しても誰かが補えばいい」。監督を共通の"敵"として、選手の間では自然と強固な連帯が生まれ、そのチームワークはプレーにも生かされた。
1年時は後にプロ入りを果たしたエースを擁し県ベスト4。自身の代も厳しさに裏打ちされた実力に自信を持っていた。しかし、最後の夏はまさかの1回戦負け。あまりにも呆気ない終わり方に頭が真っ白になったが、悔しさとは裏腹に「やっと苦しい練習から逃れられる」と愁眉を開く思いもあったという。
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会社員生活を経て2007年から横須賀市議会議員に。野球漬けの青春で学んだ「連帯」は政治の現場でも大切にしている教訓だ。「政策は自己満足では成し遂げられない。議論を重ね、全体が良くなるような合意へ向かっていくことが大事」と会派や議会がチームとして協働することを信条としている。
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