「三枝(みえ)」と「宮子(みやこ)」─。太平洋戦争によって2つの名前を持つようになった三浦市初声町下宮田在住の田中三枝さん(84)の半生をまとめた1冊の本が今年5月に発行された。タイトルは『みいちゃんと戦争─ふたつの名前をもつ女の子のお話─』。今から3年前、戦争孤児として壮絶な戦争体験を持つ田中さんを取り上げた新聞記事をたまたま目にしたある女性が手掛けたものだ。
ある女性とは愛知県一宮市に暮らす主婦の亀山永子(50)さん。田中さんとは縁もゆかりもないが、来し方をもっと知りたいと懇願し、過去の資料の提供やインタビューを通じて完成させた。
姉妹で引揚船で浦賀に
1940年生まれの田中さんは激戦地の一つだったフィリピンのマニラで生まれた。戦火が激しくなった44年、家族5人で各地を逃げ惑った。当時の記憶は曖昧だが「4歳上の兄は流れ弾に当たって亡くなった」。終戦間際の6月には、父と母が家の外で息絶えているのを9歳上の姉がみつけて泣き叫んでいた。「コレラやマラリアに感染したのかもしれないし、2人が一緒だったことから別の事情があったのかもしれない」。ただ5歳の少女に死の意味は分からなかった。そこからは姉とふたりで山中をさまよう日々。終戦後は日系人と思しき米兵に保護され、秋には引揚船で浦賀港にたどり着き、戦争孤児を受け入れていた児童養護施設の春光学園の門をくぐった。
その場ですぐに聞かれたのが名前。だが、戦時下で教育を受けられなかったこともあり、両親が付けてくれた自分の名前すらはっきり伝えられなかった。姉は小児マヒを抱えており、言葉を上手く発することができなく「山下」という苗字をなんとか理解してもらうのが精一杯。姉が田中さんのことを「みいちゃん」と呼んでいたことから「宮子」という名前になった。
10歳になると、三浦市の農家(田中家)に養子として引き取られ、家族の優しさに触れた。その後、小学校時代の同級生と結婚、3人の子どもにも恵まれた。幸せな日々の中で、ふとよぎるのが幼少期の記憶。「両親を埋めたところへ行きたい─」との思いが募り、30年以上が経っていたがフィリピンへと戦跡訪問に向った。この旅で田中さんはマニラ会という戦前の在留邦人の会を知り、当時の家族の情報を求めて事務局に手紙を書いた。これがきっかけとなり、戦前の日本人名簿から、山下家の8人兄弟の末娘、三枝という名前であることが判明。戦前に日本に移り住んでいた兄や姉が生存していることも伝えられた。
戦争がもたらした数奇な運命だが、田中さんから恨み節は聞こえない。「2つの名前も場面に応じて使い分けている」とあっけらかんとした表情。反戦の思いは強くあるが、起こることすべてを受け入れてきた達観ともとれる人生観がある。
本はAmazonで購入可。三浦市図書館で田中さんが寄贈したものが配架されている。
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