明治・大正・昭和、そして平成―。時代の元号というだけでなく、学校や企業の名称にも採用されている。横須賀市でなじみが深いのは「平成町」ではないだろうか。安浦地区の埋立事業で生まれた新たな町に付けられた名称。誰が・いつ・どのように決めたのか―。当時を遡るとともに、町の変遷を追った。
昭和64年、1月1日付の「広報よこすか」。表紙を飾ったのは安浦地区の埋立事業の写真だ。「未来の繁栄を築く」というタイトルに、都市基盤の整備が市最重要課題であるとして、事業を「鍵を握るもの」と表現していた。この計画は、新港町から三春町にかけた海面約58 haを埋め立て、新たな町を造るというもの。前年の昭和63(1988)年末に第1工区が竣工。年頭の時点で、名称は決まっていなかった。
それでは、いつ町名が定められたのか。市議会会議録によると、平成元年3月の建設常任委員会で議論が交わされていた。都市整備部長(当時)の発言では「新しい町として名称をつけることで地元の了解を得、関係9部で構成する調整会議に諮り了承を得た」とある。この決定を基に、市役所の関係各部職員から前年(昭和63年)12月末を期限に町名を募集したという。そこで出された候補は235件。検討の結果、「海陽」「豊浦」「新安浦」「平成町」の4つに絞られた。中央地区や安浦の町内会等からは事前に「新安浦」という名前が挙がっていたといい、最終的に行政が1つを選ぶことを確認していた。
「元号だから」ではない
4つの候補から結果として平成町になった訳だが、その理由を「中国の古典の史記、五経の中に『平』は『平らか』で平和を意味し、『成』は『達成』で平和が達成される―という意味として出ており、平和産業港湾都市を市是とするなかで、新たに生まれた土地につけるにふさわしい」と前出の都市整備部長は説明している。併せて、「元号を安易に取り入れた訳ではない」と答弁。ただ、担当部等での議論の中で「元号はどうなのか」との意見も挙がっていた。
加えてこの一連の過程について、「決定までが早すぎる」という見方もあった。1月13日には4候補について庁内でヒアリングを行い、2月10日には平成町という名称で市長決裁を得ていたという。「新町名は市民の意思を十分に尊重、反映したものとは言えない」「一世一元の元号を新町名にするのはどうか」と反対の請願があったが、賛成少数で不採択となった。
そして行政手続きを経て、元年5月1日に平成町が生まれた。同月の市広報には「今月1日、平成町が誕生しました」と記されている。
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当時、市政のトップにいたのは横山和夫氏。元年3月の市広報で「平和」を希求する想いを込めた文章を寄稿している。その文末では「平成とは誠に素晴らしい元号だとつくづく、かつ、しみじみと思う」と述べている。町名について市役所内部では大方決定していたものの、議会で議論する前のこと。「平成町」命名への思い入れがあったことが垣間見える。
海洋都市構想、今は住・商のまち海辺の「ニュータウン」に発展
平成町誕生の起源となる「安浦地区埋立事業」はいつ始まったのか。1981(昭和56)年、「横須賀市都市基本構想」の中で「まちの賑わいづくりのために臨海部の開発が必要」として市の基本計画に埋立事業が組み込まれた。後に、海上都市のイメージや人工島計画なども盛り込まれ、大がかりなシンポジウムや協議会も開かれた。埋め立ての必要性について、港湾の計画書では「新港施設の拡充」「住工混在の解消」などを挙げていた。
事業が進む中で、経済情勢の変化もあり、当初の構想から内容が改訂され、「よこすかポートフロンティア」や「海辺ニュータウン」と計画は姿を変えた。平成5年5月には粗造成完了をうけ、船上式典が盛大に行われている。「複合都市形成に期待」との見出しでその様子が新聞記事になっている(5月25日付神奈川新聞)。
以降、1996(平成8)年7月にはよこすか海岸通りが供用開始。大型商業施設や中高層マンション、県立保健福祉大学のほか、工場や事業所が立ち並ぶ町と変遷を遂げた。同地区に隣り合う新港町には、警察署や救急医療センター、官公庁が順次移転。こども園設置計画も進むが、一帯の整備は、平成の終わりに落ち着いたところだ。
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