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三浦版 公開:2012年8月3日 エリアトップへ

三浦の散歩道 <第22回> みうら観光ボランティアガイド協会

公開:2012年8月3日

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揖の三郎山の社
揖の三郎山の社

 「秋晴れやなまこの如き城ケ島」高浜虚子 ホトトギス派の巨匠である虚子が城ケ島の様を三崎の方から望見しての句でしょうか。東西約一・八キロメートル、南北約0・六キロメートルで、周囲は約四キロメートルという小さな島です。多くの人は三崎港側を内浦と書いて「うちっかい」と称する方に居住しています。島の周囲全体には海食崖が見られますが、「うちっかい」と呼ばれる北岸には埋立地が広がっています。小さな島ですが、縄文時代以降の遺跡が六カ所も見つかっています。それは島の東「安房(あわ)ヶ崎遺跡」や西側の「城ケ島灯台西方遺跡」の他に島の中心部などにあり、大昔から人が住んでいたことがわかります。島名については諸説ありますが、江戸時代の天保年間(一八三〇〜四三)に書かれた『新編相模風土記稿』に、古く、この地に城郭があったことによる名称であると言うことですが、それについては、戦国時代、北條対里見による島の争奪戦の時、陣屋(城)が構築されたということです。さらに、昔、尉(じょう(老爺))という者が住んでいたので「尉ヶ島」と書いたのを後に今の文字に改めたと言うのです。また、この島の先祖は三崎の「城村(じょうむら)」から移り住んだ人たちが多かったことから「城」の字が使われたとも言われています。他にこんな面白い話もあります。三浦荒次郎義意が、島に兵糧を蓄え、その守備と秘密保持のために、鬼に扮して人を寄せ付けなく、人々は恐れて「鬼が島」と呼んだ時期もあったそうです。海食崖が見られると記しましたが、島の周囲に「崎」の付く名称が多くあります。白秋詩碑のある辺りは「遊(あそび)ヶ崎」。鎌倉将軍遊宴の地と言われています。土地の人が「なんど崎」と呼んでいる、「灘ヶ崎」には三ツ山とも呼ばれる「楫(梶)の三郎山」があります。小丘の頂きに小さな鳥居と共に宝篋印塔があります。完全ではなく、上部の相輪と塔身、台座は欠損していますが、屋根や基壇の反花座(かえりばな)等の特徴から関西形式であると言われています。造立は鎌倉時代後期で、津(港)の入口での航海安全祈願のために建てられたものとされています。なお、祭神の「楫の三郎」は、海南神社の祭神藤原資盈公の家臣四人(四天王)のうちの一人で、操船の技術に長じていたと言われています。これまで、太郎、二郎、三郎とご紹介をしましたが、四番目の四郎も城ケ島内に祀られています。おって紹介を致します。さて、楫の三郎山のことですが、山の登り口の掲示板に、次のように書かれています。「大正初年頃までは、この山に主の大蛇がすんでいるから登るとたたりがあるとの言い伝えがあり、誰一人登ったことがなかったと言われています。今では、航海の安全と大漁を祈願する漁業関係者の信仰が厚く毎月七日、十七日、二十七日に多くの人々が参拝に訪れています。」と。次回も城ケ島を歩いてみたく、続けてのご紹介となります。つづく
 

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