三浦の散歩道 〈第33回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
松覚院の閻魔堂の前の道を進むと右へ曲がって国道へ続いていますが、真っすぐの狭い旧道を行きましょう。しばらく進むと右側に十劫寺があります。入口に案内板と並んで「南無阿弥陀仏」と異った字体で書かれた名号塔があり、願海と花押が刻まれています。塔の高さは台座も含めて1m80cmもあろうかと思われます。台座には「念仏講中」の文字と、少し陰になっていますが、「光明遍照 十万世界 念仏衆生 摂取不捨」の「偈(げ)」が彫られています。詩の形式で仏を賛美する光明四句の文です。裏に天保9年(1838)の年号が刻まれています。
寺へは向かわずに海側に少し向かうと、右側に庚申塔が8基と六十六部の供養塔が見られます。いずれも「岩井口」の講中によって建てられたもので、海側から造立年を見ていきますと、寛政12年(1800)、宝暦11年(1761)、昭和55年(1980)、明治5年(1872)、元文5年(1740)、元文2年(1737)、元禄12年(1697)、年号不詳のもの等と宝暦10年(1760)の「廻国六十六部塔」です。
庚申(かのえさる)の信仰は古代中国の道教の教えに基づくと言われています。人間の体内に三尸(さんし)という虫がいて、庚申の夜に眠ると体内を抜け出し、天帝にあること、ないことを告げ口をするという。そうすると、寿命が短くなるので、庚申の夜は眠らず目覚めていなければならないのです。ただ、1人では大変なので、講中をつくり災難を回避する手立てを講じたのです。毘沙門に残る寛文8年(1668)銘の石塔には「村の住人37人は庚申の夜、三彭(さんぽう 三尸)の仇を避けるため、誠意を持って集まり、鶏が鳴いて夜が明けるまで行事を修めてきた」(松村雄介著「神奈川の石仏」)とあります。ここ、岩井口の講中も同様であったと思われます。
ここの庚申塔の中で、明治5年造立の塔は主尊は青面金剛(三尸の虫を封ずると共に病魔を退散させる本尊)で、日月と鬼、二鶏に三猿の駒形です。その青面金剛像に蛇が巻きついているのです。「陀羅尼集経」の中では身体を青色とする四臂(ひ)三目の忿怒形(ふんぬぎょう)で、目は赤く、髑髏(どくろ)をいただき、身には蛇がまといつくという姿であるというのです。
巳の年の初めに、蛇体をまとう青面金剛に参拝をして、その忿怒の姿から、新しい年をしっかり生きるよう力付けられた想いです。
次回に紹介します「十劫寺」の入口に次のように書かれた掲示板がありました。「怒れば地獄、欲ばれば餓鬼、恥を知らぬは畜生」と。この1年の座右の銘としたいものです。
つづく
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原画ずらり上村一夫展3月29日 |
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