少年時代に音楽に魅了されて以降、プロミュージシャンとして日本のジャズの黎明期を見てきた宇野順之さん(上宮田在住)。現在は市民楽団に所属し、生涯現役プレイヤーとなってアルトサックスを奏でながら、仲間たちとともに音を楽しんでいる。
ジャズブーム追い風に
御年84歳。寄る年波をものともせず、愛器のアルトサックスを手に軽やかな指さばきを見せる。その右手親指の第一関節には、楽器の重みを支えるために出来た大きなタコが1つ。「初めの頃は痛くてね」。これまでの長い音楽人生を物語る年輪を見つめて、そっと撫でた。
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出身は茨城県常陸太田市の農家の生まれ。戦前、楽団に所属していた従兄弟の手ほどきで、16歳〜17歳の頃に初めてクラリネットを吹いたことがきっかけだった。「いつかは自分も」。音色と立ち姿に憧れ、音楽への思いを募らせた。成功する確証などなかったが、音を奏でることが好きで上手くなりたいという思いが音楽の道を進む決意を後押しした。練習を重ね、次第にダンスホールやクラブなどから依頼を受けるようになった。
その後、本格的にプロのミュージシャンをめざすべく上京。戦後の世間は空前のジャズブームの真っただ中だった。東京駅には楽器を携えた奏者が集まり、その都度メンバー編成が変わる即席バンドを結成しては、横須賀市のEMクラブ(旧海軍下士官兵集会所)をはじめ、厚木・立川・横浜など進駐軍のキャンプや施設を演奏して回ったこともある。昭和30年代初頭、国家公務員の初任給がおよそ8000円だった当時、月収は2万円ほど。依頼は引く手あまたで、「仕事に困ることはなかった」と感慨深げに回顧する。
競争が厳しいプロの世界。周囲には国立音楽大学出身者が多く、「田舎から出てきた身として悔しかった」と明日のスターを夢見るライバルたちと凌ぎを削ってきた日々を振り返る。また、同じ時代をともに駆け抜け、今も第一線で活躍するサックスプレーヤーに”ナベサダ”の愛称で知られる渡辺貞夫氏がいる。年齢は1歳違いで、隣の栃木県からの上京組と境遇は近いが、当時からその技術力の高さは若いながらも秀でたものがあり、注目を集めていたという。
「音楽で食べていくなんて」。ミュージシャン志望を猛反対した故郷の両親の心配をよそに、26歳〜27歳のとき、ビッグバンド「松本文男とミュージックメーカーズ」のメンバーとして初めてテレビに出演。進駐軍の撤退でジャズブームが下火になると、歌謡曲のバックバンドへ移行する同業者も多く、淡谷のり子、坂本九やクレイジーキャッツなど時代を彩った人気歌手を支えた。
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55歳で第一線から引退。70歳のときに横浜から移り住んだ故郷の茨城県では、仲間を募ってバンドを作り、地域のコンサートに出演するなど精力的に活動していたという。
昨年5月、「人生最後の引越し」と称し、13年ほど住んだ茨城を離れ、息子のいる三浦市へ。当初は海釣りや散歩を楽しんでいたが、マンション暮らしもあって愛器に触れる機会が減少。「どこか演奏できる場はないか」と三浦市役所に相談したところ、紹介されたのが今年創立25年を迎えた市民吹奏楽団「三浦シティ・ウインドオーケストラ」(高見和恵代表)だった。
見学後、入団を決意。「雰囲気が良く、ここなら楽しく吹けると思った」と話すように、ひとたび一緒に音を奏でれば、すぐにメンバーと打ち解けた。いつしか子ども団員たちとも仲良くなり、年齢差約75歳の小さな音楽仲間もできた。「これは私だけの特権ですね」と喜びの表情。
思いきり吹ける場所を探してたどり着いた菊名の砂浜では、音色に引き寄せられた地元漁師と顔なじみになったことも。特別な会話はいらない、人と人とを繋ぐ音楽の力を身をもって体感した。
音が聴こえにくい、譜面の記憶力が落ちてきたなど年齢から来る肉体的な衰えに一喜一憂することも少なくないが、「吹けばスカッとしちゃう」
離れて暮らす孫娘も音楽の道を選び、プロのジャズピアニストとして活動。会えば音楽談義に花を咲かせるのだとか。「(プロのレベルは)とっくに追い越されちゃいました」と残念そうな口ぶりとは裏腹に、写真を見る目には嬉しげな笑みが溢れていた。
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