逗子にあった「味の素」編 ちょっと昔の逗子〈第3回〉 鈴木製薬所を立ち上げ
児童文学作家・野村昇司さんにご協力いただき、明治から昭和にかけての街の様子や市井の人々の生活を史実に基づいて蘇らせます。第一弾は「逗子にあった『味の素』編」。語り継ぎたい、逗子の創作民話です。
カジメはそれまで、肥料に使われるのがせいぜいだったが、医薬品や殺虫剤の原料として千葉、神奈川、静岡、三重などの海岸では盛んに採られていた。
ナカは早速、村田春齢の指導の下に1888年(明治21年)8月、家の庭に作業所を作り、二代目三郎助の嫁・テルとヨード製造に取り掛かる。当時はカジメを乾燥させ、それを焼いてケルプ(ヨード灰)を作り、その浸出液を煮詰めて結晶を取りだしていた。やがて三郎助もヨード作りに参加するようになり、薬品問屋におさめるようになる。
1890年、三郎助に長男が誕生。ここで忘れかけていた投機に手をだしまたまた大失敗。ナカの心配が募る。やがて心を入れ替えた三郎助は本格的にヨード製造に加わり、生産量が増えていく。この頃になると、千葉や伊豆半島、三重の方まで足を延ばしてカジメの仕入れに励んだ。
葉山御用邸が完成した次の年、94年に日清戦争が始まった。この年、三郎助の弟・忠治も学校を卒業し、ヨード事業に参加。そして薬品の生産工場として「鈴木製薬所」を立ち上げる。
ちょうどこの頃、村田春齢の師匠である東京帝国大学教授で薬学士の長井長義による指導も受け、生産力をさらに向上させた。また、この2人の顔もあって多くの取引を展開することができたのだった。
野村昇司
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