逗子にあった「味の素」編 ちょっと昔の逗子〈第5回〉 ピンチをチャンスに
児童文学作家・野村昇司さんにご協力いただき、明治から昭和にかけての街の様子や市井の人々の生活を史実に基づいて蘇らせます。第一弾は「逗子にあった『味の素』編」。語り継ぎたい、逗子の創作民話です。
フル回転していた逗子工場は日露戦争の終結によって一変する。新設から5カ月目のことだった。ブームは一転、硝石の需要は激減し、全国各地の工場は閉鎖に追い込まれた。鈴木家の逗子工場もヨードやアルコールの製造は続けたものの、硝石の製造は休止せざるを得なかった。
さらにヨード製造に命を懸け、発展させてきたナカがその1カ月後に亡くなる。鈴木家は大きなピンチを迎えたのだった。
ちょうどそのころ、東京帝国大学理学部化学科教授で日本の十大発明家の1人にも数えられる池田菊苗が1908(明治41)年、昆布のだしの味の正体を明らかにし、グルタミン酸を取り出すことに成功。グルタミン酸を主成分とする調味料の製造法の特許も取得する。古来からの味覚「甘味」「塩味」「酸味」「苦味」に「うま味」が加わった瞬間だった。
二代目三郎助は、池田が発見したうま味成分の抽出方法とカジメからヨードを取り出したことに関係があるのではと、誰よりも早く池田の研究室を訪ねる。
この二つに関係性はなかったものの、これが契機となり事業化の話しがまとまる。当時、池田はこの特許の事業化を考えていたが、戦争後の不況で手を挙げる企業はどこもいなかった。そこで、最初に研究室を訪れた二代目三郎助に依頼。鈴木家はまたしても大きな転機を迎える。 野村昇司
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