逗子にあった「味の素」編 ちょっと昔の逗子〈第7回〉 逗子から川崎へ
児童文学作家・野村昇司さんにご協力いただき、明治から昭和にかけての街の様子や市井の人々の生活を史実に基づいて蘇らせます。第一弾は「逗子にあった『味の素』編」。語り継ぎたい、逗子の創作民話です。
「味の素」という名前も決まり、逗子工場での製造が開始した。1909年5月には一般販売が始まったが、それまで世になかった商品であるため思うように売れない時期が続いた。
そこで新聞やチンドン屋による独自の宣伝を展開。その甲斐あって売れ行きは二代目三郎助も考えられないほどのものとなる。当然、逗子工場の生産能力では限界が見えはじめた。製造過程で大量の塩酸を使うため塩酸ガスが発生し、近隣の農家から作物に被害が出ているとの苦情も相次ぐようになった。
また、大豆やジャガイモ、小麦粉等の廃液についての苦情も絶えなくなるように。田越川に流して河口近くの住民から海水汚染を指摘され、工場の庭に貯められた廃液を船で葉山沖まで運んで廃棄するようになったが、それでも間に合わず、大雨の日を選んで田越川に流すこともあった。
こうして地元からは操業中止や工場の移転を求める声が大きくなった。製造方法に問題ありと見た鈴木家は塩酸法ではなく、硫酸法でも作れること発見。製造方法を転換したものの、1910年には台湾で、その後韓国、中国へも積極的に拡大したため、生産量が追いつくことはなかった。
二代目三郎助は、ついに工場の移転を決意する。場所は当時国を挙げて開発が進められていた川崎を選んだ。1914年のことだった。 野村昇司
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